ツインレイとジャッジメントと鏡の法則

 

こんにちは、Pink Pig です。
 
前回のジャッジメントについての続きですが、今回は「ツインだったらどうなるか」的側面から書いていきたいと思います。(あくまでも「うちのツイン」の例です。こうならないとツインじゃないということではありません。)
 
よく言われる「鏡の法則」ですが、これはツインに限らず、自分が無意識に鏡として選んでいる(自己を投影している)他者なら誰を対象にしても起こります。相手の好きなところは、自分自身の好きなところ。相手の嫌いなところは、自分の嫌いなところ。
では、自分の嫌いな、許容できない自分を許容してしまえば、相手の嫌なところも気にならなくなる…?まぁ、ロジックとしてはそうではあるんですが…じゃあ「なんでもOK」自分に出しちゃって、本当にOKって感じれますか?
 
例えばサディズムは、多かれ少なかれ人間は皆持って生まれるものです。私は動物の肉を食べるし、論理的には自己正当化できないと解っていても、弱い動物や子どもをむやみにいじめて、己の劣等感をサディズムではらそうとする人に強い怒りを感じます。(そんな人と個人的に知り合うことも無いですが、炉端で見かけたりすると普通に不快でしたし、動物や子どもを守ってあげたくなります。)
先程理論的には正当化できないと言いましたが、このような反応をするのが当然私だけで無いように、人間心理として、(動物食べといて)動物虐待に憤りを感じるのはごく自然なことです。「子ども(弱者)を守る」という本能は、社会生活を経験してきた上で、多くの人間の遺伝子レベルに刻まれているからです。そういった本能が、高度に社会的動物である人間には有益だったということですね。
 
というわけで、「こんな状況は良くない」と思った時に、「状況を変えたい」、つまり怒りの感情が出ますね。
これを鏡の法則に照らし合わせてみるとどうでしょうか。サディズムは私の中にもあるから、相手の感じていることがある程度読めるし、それに対して怒りもするのですね。逆に全く持って理解不能な、一度たりとも経験したことない感情なら、困惑こそすれ、怒りには繋がりません。ではこの状況、「私の中のサディズムを認めます、許します。だからサディスティックな人にも関与せずスルーします。」と言って、何の感情も持たずに見れますか?むしろ、それできたら人間としてちょっと危うくないですか?
もしくは、「怒りは悲しみから来てます。あぁ悲しい。悲しみを受け入れます。」と言って、弱者がいじめられている状況を傍観しますか?その弱者がもしあなた自身だったらどうですか?他人に起きたことには哀れんで、憤れても、自分ごとだとどうでもよくて、いじめられときますか?
 
まず、自分のネガティブな側面を認めたとして、その上で自分をどうジャッジするかは、自分自身の問題です。「感情は認めても、それを行動に表すべきでは無い」状況はいくらでもあります。(何でも自分の感じるがまま行動すれば、自分自身が困った状況に陥るのは言うまでもありません。)
ツインに戻りますが、ツインはこういった「自分の見たくない自分」を他者よりも激しく自身にぶつけてくるところがあります。誰でも「自分のダークサイド」を保持している他者に自然に惹かれるというのはよくあることですが、ツイン相手は、こっちが疲れるくらい、それを執拗に見せてきます。
 
先程のサディズムですが、夫は過去から来るトラウマ等から、無意識に私にサディスティックな言動をすることが多くありました。じゃあ私が自分の中のサディズムを認めると、それが治るのかと言うと… 私は既に自分の中にあるサディズムにも気づいていたし、特にそれをどうこうしようという思いすらありませんでした。(サディズムにしたがって不道徳な行動をするという認識もありませんでした。)
ツインによく推奨される「受け入れる」、「自分の問題と考え相手を変えようとしない」等とは別の方法を、私は取りました。
夫(自分)相手に、「だめなものはだめなんじゃボケ!」と怒ったのです(笑
 
「自分に怒れるということ。」私はこれもとても大事な自己愛の一つだと思います。親が子どもに怒るのもそうです。精神的に不健康な親は、純粋にコントロールすることのみを目的に怒ることが多いですが、子どもを愛している親は、「子どもの為=子どもを愛している自分の為」に怒ります。「危ないことしないで」一つとっても、「あなたが怪我したら私が迷惑被るじゃない」と、「あなたが怪我したら、あなたを愛してる私が悲しい。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。「悪いことしちゃだめ」も、「私が恥かくじゃない」と、「不道徳に生きると結果的にあなたが傷つくのよ。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。
 
コントロールするよりもっと悪いかも知れないのが、「無関心」です。子どもに対して、「あなたをコントロールしようとすることを手放します。怒りも感じません。」といって、それは本当に子どもの為でしょうか。実際のところ、子どもは親の感情無しには学びません。「こうこうこうだから、やめようねー」と言い聞かせても、親が「本気で」自分に怒ってくれないと、「真剣に」対応されていると感じれずに、学べません。私の主人は、前妻との子に「無関心」だった為、子どもの成長がかなり遅れ、子ども自身苦しんでいました。当初は私に色々と嫌がらせをしながらも、その子は私に「私を直して(”Fix me!")」と言ってきました。自分が間違ったことをしていたのは、どこかで分かってはいたのです。それで自分の首をしめていたことも。誰かに「真剣に」向き合って、怒って欲しかったのです。ごまかさないで、ちゃんと直視して、意見して欲しかったのです。感情をぶつけるのでは無く、その子と向き合って「真摯に」怒ると、私の言葉を素直に受け入れ、みるみる変わっていきました。同時に神経症も良くなっていきました。
 
あなたは常にあなた自身が育てています。親であるあなたが、子であるあなたに「何でもOK」、またツインであるお相手に「あなたも私だからなんでもOK」と言って、それを「真実の愛」と呼べるでしょうか。もしかして、「自分が苦しみたくないから育児放棄/相手放棄」に近いものじゃないでしょうか。
「なんでもOK」なのは、感情をありのまま感じ、受け止めるレベルまでです。自己の感情同様、ツインであろうとなかろうと、他者が何にどう感じようと、根本的にコントロールできるものではありません。
しかし、あなたのツインが、あなた自身が自分に「してはダメ」と言っていることをしていたら、それは怒ってあげるべきじゃないかなと私は思います。(逆にあなた自身が「あ、これいいんだ」と納得させられたら別ですが。)「受け入れ」とは「放棄/放置」とは違うからです。相手がネガティブな感情も感じることを受け止めるのが受け入れです。相手があなたのモラルを破っているのを見てみぬふりするのは放置です。関係に「他人度」が増すほど、大人同士では放置しても自己責任なので問題ないことが多いですが、ツインは「もう一人の自分」です。自分のダークサイドを自分が放っといて、勝手に良くはなりませんよね。
 
ツインの表面的な行動をコントロールしようとしても、上手くはいきません。でも、親に愛して欲しい子どもは、親が自分の感情を受け止めてくれた上で、自分の為に怒ってくれていると感じれたときには、自然に変わろうとします。愛のみが人を変えることができると言われるのもこういったことだと思います。
ツインはもう一人の自分であると共に、自分の親で、子でもあります。私が「私はこれは嫌い。私はこれはしてはいけないと思う。」と怒りを持って伝えたことは、ツインに響きます(そして、もともとツインも実は私と同じ価値観を持っています。根本的に、私達はお互いに同意しているのです。)「変えられた」と言うよりは、最終的にいつも「気づかせてくれてありがとう」という反応になります。
 
ツインに限らずですが、愛ある否定とは、「あなたを愛しているけど、あなたのこうゆうところは好きになれない」だと思います。「あなたのこうゆうところが無くならないとあなたを愛せない」との違いです。前者は人に影響しますが、後者は人を萎縮させ、神経症にさせます。
自分にも、また自分の半身のようなツインにも、「NOはNOと言う」のは大事だと思います。執着もエゴも、持っている以上苦しみもあるものですが、苦しいからって何でも手放してしまっては(または手放したつもりになっていては)、魂は学びません。あなたが人間として生まれたのは、人間として感じ、苦しみも喜びも学ぶべきだったから。そんな泥臭い生き方が、人間である自分を愛するということではないかなと思います。
 
 
Pink Pig でした。