ツインレイとジャッジメント

こんにちは、Pink Pig です。

 
「はじめに」の追記にも書きましたが、私と主人のプログラムの進み方に、ツインレイに一般に言われていることと特に異なる点があるので、ご参考に記しておきたいと思います。
ツインレイは「無償の愛」を周囲にふりまくようになると言われます。それ自体は、正直私には何のことを言っているのかよく解りません。私は特に今に限らず、昔から人を助けたり、喜ばせたりするのが割と好きですが、際立って人より他者に貢献しているとも思えません。例えばボランティア活動をしたら、無償の愛を与えていることになるのか?「見返りを求めない善意」という意味では、通りすがりの人に笑顔で挨拶するのも、ある意味無償の愛なのでは??「無償の愛」が具体的にどういった意味合いで使われているのか解らないので、それはとりあえず置いておきます。
この「無償の愛」とよく混同されているようで、余計に判りにくいのが、「すべてを受け入れる」、「愛の存在になる」等など… 一見物事や人に対する「裁きの放棄」を促されているようにも聞こえるのですが…
 
私と主人のプログラムは、ぶっちゃけ「他者を裁くことを学ぶ」連続でした。この「裁く」とは、自身と宇宙の裁きを混同した傲慢な意味合いで無く、「悪いものは(自他とも含め)悪いと認める」、「嫌なものにはNOと言う」等、自分の意見や感情を尊重する先に見えるジャッジメントです。
主人は一家のスケープ・ゴート(生贄)として育てられ、何でも「とにかく受け入れる」ことを強要されて育ちました。その結果、「愛」の建前と共に、自分に頼りながらも毒を注いでくるような他者を「無償の愛(のふり)」でもって受け入れようとし、精神的にズタボロになりました。
でも、その「無償の愛」は実は大嘘だったんです。実は近しい人達が大嫌いで、結果主人から彼らにも多大なダメージを与えていました。主人の精神回復は、そんな自己欺瞞から徐々に目覚め、聖人を気取っていた自分を取り払い、「ジャッジする自己」を認識し、容認していくところから始まりました。
 
人は万人の神ではありませんから、一個人が「神の裁き」を与えることはできません。(「その人の神の裁き」は与えられますが。)「神/宇宙の裁き」は、私達皆、嫌でも受けるものです。では、私達個々人の裁きとは何でしょうか。
不当に傷つけられたら、自分の為に立ち上がるのが自然です。大切な人を傷つけられたら、その人を守るために戦いたいと思うのが自然です。人的道徳に反した行動を目にしたら、社会を守るために罰したいと思うのが自然です。裁かないことが愛のためであれば、裁くこともまた愛の為です。
 
また、「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という記述も割とよくありますが、大きな視点で見れば、そんなものはっきり言って「言いよう」です。ジャッジするもしないも(しないように促そうとするのも)、すべてエゴだからです。私達は皆神に「そうゆうふうになるよう」造られています。
例えば、あなたが誰かにジャッジされた時、それがあなたの苦しみになったとします。個人として苦しみは避けたいでしょうし、大概避けようとするよう造られているのがあなたですが、その苦しみは神からあなたの成長の為に与えられたとも言えます。
もしくは、人にジャッジされたことにより、あなた自身が自分に不安や疑問を感じたとします(多くの場合、その不安はジャッジしてきた他者への攻撃/苦手意識となって表れます)。それでいいんです。胸を張ってジャッジメントを拒否できない限り、あなた自身の内面に迷いがあり、それに向き合い消化仕切るチャンスを与えられています。(最終的にジャッジメントと同意するか否定するかが根本の問題ではありません。)
人は自身の自身に対するジャッジメントが怖くなければ、(現実的に環境に影響される場合を除いて)他者からどう思われようが、言われようが気にならないものです。むしろ、「そんな風に考える人もいるんだ」と面白く思えるでしょう。なかなかそこまで達観するのは難しいですが、別に達観してなくていいんです。自己欺瞞に陥ってみてこそ学べる自己肯定ですから。
 
「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という人は、その人のエゴからそう言っています。そしてそれも、神にそう言うよう造られてのことなので、その人の言葉を必要な時に聞いた人は救われます。そういった意味で、その人もそれでいいんです。
ただ混同すると危険だと思うのは、「神の意思」が「個人の意思」に相反することもままあるのは自然なことで、個人が神になろうとしても別に「正しいことをしている」わけでは無いということです。
それをミヒャエル・エンデの「果てしない物語」はよく表していると思います。
 
ネバー・エンディング・ストーリーとして映画化もされましたが、是非原本を読むことをオススメします。児童書と侮るなかれ、とてもよく考えられたお話です。
物語のステージは、主人公の少年バスチャンの住む人間世界と、ヒーローであるアトレーユの住む本の中の世界ファンタスティカの大きく分けて2つなのですが、ここでは具現化した「神」のいるファンタスティカに関して話します。
ファンタスティカは人間の空想や、求める意思によって造られますが、そこに「幼心の君」という神(バスチャンには、少女の形をとっています)がいます。ファンタスティカが「虚無」に侵されてピンチになった時、「神」は自ら人間の子を呼び込んでその世界を救おうと動きます。ここで面白いのが、幼心の君は、ファンタスティカの住人の誰が良くて、誰が悪くて、誰が重要で、誰がそうでなくて、といったジャッジをしないということです。彼女にとって、ファンタスティカのすべての住人には等しく価値があり、尊いものです。それがその物語の中の「宇宙」であり、神の視点ですね。
 
だ け ど、内心何を思うかは別にしても、もしファンタスティカの住人そのものが、彼女と同じメンタリティで行動してしまうとどうなるでしょうか。例えば、ヒーローであるアトレーユは、一族のしきたりとして雄牛(だったと思う…)を殺そうとしますが、もし彼が「お前も私も神の目には同じ価値があるから、お前を殺さないでおこう」とか。それはまだしも、もしくは物語内の「悪役」に滅ぼされそうになっている時に、「おまえを裁く資格は私には無い。だから潔く殺されよう。」とか…
そうするとどうなってしまうかと言うと、アトレーユは「ヒーローとしての使命を全うできない」、つまりヒーローキャラとして存在できなくなります。お話が「お話が進むべき」方向に進まないですね。それは神の意図に反することです。(実際のところ、反しようったて反せないのも神の意図ですが。)ヒーローは多かれ少なかれ、「お前が間違ってる!俺が正しい!」、もしくは、「俺は俺の道を行く!邪魔する者は排除する/邪魔はさせない!」という信念を持って行動しています。(個人が利益を追求する場合も、宇宙愛を説く場合でも、このメンタリティは基本的には同じです。)たとえそれが「神のみ心に沿って」の行動でも。
 
少し言いたいことが伝わってきたでしょうか…
幼馴染の君が善も悪もすべてを大切にし、ジャッジしないのは、つまり「ヒーローはヒーローとして他者をジャッジして、戦って、苦しんで/喜んで、ヒーローとして機能してくれたらそれでいい」、「悪役は悪役として他者をジャッジして、退治されて/企てに失敗して、苦しんで/喜んで、悪役として機能してくれたらそれでいい」ということです。(ヒーローや悪役を定義づけるのは読み手の方ですが。)なぜなら、「それでこそ物語が語られるから」。私達は皆、個々人の人生のメイン・キャラであると同時に、宇宙が書いた壮大な物語を紡いでいるキャラクターの一人に過ぎません。
 
つまりのところ、「ジャッジしない」と個人的に決めたから実際に神に近づけるのでは無い、ということです。あなたがジャッジしないことで救われる人もいれば、逆に救われない人もいます。自分で自分を裁きたいのに裁ききれない人は、実は「人に怒られたい/正されたい」欲求も持っており、そういう人は「怒れない親」が多い現代に増えているようです。わざわざ他者に正されようとお金を払う人達もいます。自己欺瞞に苦しむ人は、逆にジャッジされて救われます。自己欺瞞に向き合いたく無いけど、無意識に向き合おうと、他者の自己に対するジャッジを促す人もいます。つまり、ジャッジしない人に良い意味と悪い意味の両方があるのと同じように、ジャッジする人にも良い意味と悪い意味の両方があります。
 
あなたが他者にジャッジされたくないから、他者をジャッジしませんと公言して、ジャッジしてくる人を非難するのは欺瞞ではないかと、私は思います。(だって非難するあなたもジャッジしてるから…)ジャッジメントは人間である以上、理不尽なものもそうでないものも、私達は受けます。神が受けさせます。何を理不尽と考えるかは個人によりけりですが、「個人の意見」は「神の意思」とは無関係です。(裏を返せば、万人の「個人の意見」が、まるまる全部「神の意思」です。)「神に愛されて」生きようというのであれば、まずあなたが自己を裏切ること無く、自身から隠れること無く、感情と思考の不一致を受け入れ、「真に自分の信念に忠実に」生きることではないでしょうか。
 
私達のツインレイ・プログラムは、「ジャッジしろ(そしてジャッジする自分をネガティブにジャッジするな)」と言っています。そうでないプログラムの方々が大半だというのは全く結構ですが、同じようなマイノリティで、疑問を感じている人に届けばと思って書きました。
 
Pink Pig でした。