ツインレイと感情の有無

こんにちは、Pink Pig です。
 
ツインレイ・プログラムは、感情を強く揺さぶられることが多く起きます。特にツインの相方が、とりわけ神経に触ると言うか、それまで人生で経験したことの無いようなネガティブな感情を呼び起こしてきます。
でもこれ、最近気づいたのですが、ポジティブな感情についても同じことが言えるんですね。例えば安心感や、幸福感等。陰陽別け隔て無く様々な感情が呼び起こされるので、感情のジェットコースターと言うか、「幸せだけど不幸せ」のような、一筋縄でいかない状況に連れ込まれるのだと思います。
 
ここで私達が皆やりがちなことが、「ネガティブな感情に焦点を置く」、「ネガティブな感情をどうにかできないか考える。」だと思います。私達は(特に女性は)人間としての防衛本能から、ネガティブな記憶の方が良く覚えていたり、また自己精進を含めて総合的に皆人生をより楽しく、快適に、意味深く(正確には「意味深いと感じれる」という快を求めて)生きたいと思っているので、一見それらの足かせや無駄になるネガティブな感情を問題視して改善方法を考えます。(逆にポジティブな感情は、ただウェルカムなので、ある意味追い求めるだけで、感じた後はスルーされがちです。)それが良いとか悪いとか言うのでは無く、ただそうです。
 
しかしスピリチュアルの世界では、「ワンネス」や「すべては愛」の視点に基づいて、ネガティブな感情やそれを持つ人を敵視、軽視、侮蔑、もしくはそういった敵意や優越感を隠しながら他者について嘆いていたりといった傾向が見られます。(その時点でその人も同じ穴の貉ということに気づいていないのがなんともですが…)
他者をジャッジしたり、敵視したりするのが悪いことだと言っているのではありません。他者にネガティブな感情を向けてはいけない/コントロールしようとしてはいけないと言うことが偽善だということを、この記事では説明しようと思います。何故わざわざそんなことをするのかと言うと、私が単純に偽善が嫌いだから(恐らく偽善の裏に隠れた劣等感や自己満足、自己防衛等が、私の中のネガティブと共鳴しているのでしょう。)でもありますが、ツインレイ・プログラムからスピリチュル迷子になっている方に、必要な時に読んでいただけらと願うからです。(恐らく自らスピリチュアル記事を読みすぎて、いらんこと考え過ぎた自分への憐憫の投影でしょう。)
 
「ワンネス」や「すべては愛」は、神の視点では実際そうなのだと思います。また私達もその視点にアクセスすることはできます。では根本的に、何故私達は、ポジティブもネガティブも含めて、感情を持つのでしょうか。
陰陽の理が示すように、ネガティブの無いところにポジティブはありません。ですので、「神/天国はすべてポジティブ」で、それだけを目指すべきと考えるとしたら、そもそもが矛盾になります。(悪魔/地獄が間もなくセットでついてきます。)実際は「すべてがニュートラル」、つまり無であり、無限の有であるということだと思います。
しかし神は私達に感情をくださいました。神の目からしたら、人間のポジティブな感情もネガティブな感情も、等しく尊いものでしょう。神はこじらせスピリチュアリストのようにはあなたをジャッジしません。
 
また私達は人間である限り、不快を避けて、快を求めて生きるように生まれました。(一見不快を求めているようでも、根本的には快を欲します。)「ワンネス」等に近付こうとするのも、正にその為です。つまり私達は、「愛」を説くスピリチュアリストを含めて、自分の人生や感情が「ただそうである」ことを受け入れたくないように造られているのですね。不快は避けたいですから。その時点ですでにコントロールが入っています。
何度も言いますが、私はコントロールが何でもは悪いとは思いません。っていうか、根本的な意味でコントロールしようとしない人間なんていません。何らか影響を与えようとする時点で、「結果は神に任せる」と言いつつ、コントロールを希望しています。そういった意味では、キリストもブッダもコントロールを試みます。実際には神をコントロールすることはできないという事実は受け入れていたと思いますが。すべてはバランスの問題です。
 
以前私のアパシー(無感情)について少し述べましたが、どうやら無意識にネガティブな感情に蓋をしていたから、ポジティブな感情も感じにくくなり、相対的に感情が鈍感になっていたのだと気づきました。ネガティブな感情に意識的に目を向け、感じることを許してゆくと、自然にポジティブな感情もよりビビッドになってきました。
泣いて、笑ってということが人間にとって自然であると同じぐらい、笑ってだけして生きたいなーと思うのも、人間として自然なことです。でも現実には、ネガティブな感情はそこにあります。ポジティブが強ければ強いほど、ネガティブも強くなります。「私は完全ポジティブです」と思うのは、ネガティブを隅に追いやっているからで、あるものはあります。
 
感情は神に与えられたものですが、現実的に、感情の起伏が激しい人、また自分の感情をコントロールし辛いは、人生も苦労しがちだなと思います。感情のコントロールは、人間が社会的な動物として進化していく中で欠かせないものでした。(また、感情が欠落しても社会性が損なわれます。)何事もあればいい、もしくは無ければいいというものではありません。それは、ネガティブな感情も同じことです。個々人の視点からすると、「どのバランスが自分にとって生きやすいか。」に尽きると思います。スピリチュアルに限らず、「完全に」何それを追い求めるのは神経症的思考で、無いものを追い求めているのと同じです。
 
それを踏まえた上で、ツインレイです。先にも述べたように、私達はツインを通して感情が「極端に」揺さぶられます。言うまでも無く、疲労します。(でもそんな中、人生自体は不思議と何とかなっちゃうサポートもでてくるので、プチ生地獄的経験もあります。笑)イメージとしては、相対的に人生としては、ツインは「黒に近いグレー」を生きていたところ、「白に近いグレー」にプログラムを開始してからひっくり返るような感じです。でも感情面では、暗闇に隠れていた感情達が、良くも悪くも光の元にさらけ出される状態になります。状況が移行する際のショックのようなものだと思います。
 
ツインレイに限らず、自分の感情を内観するのは精神的にとても有効なことです。だからと言って現実をおろそかにしても、結局とばっちりを受けるのは自分ですが。精神世界と現実世界の関わりは、心と体の関係に似ているなと思います。「どっちがどっち」に影響すると言い切れません。相互に影響します。ツインとの関係も同じで、様々なレベルで相互に影響しながらプログラムが勧んでいきます。
 
と、言うことは…自分の陰/陽であるツインを避けて通れない(いや、避けてもいいんですけど、少なくともツイン・プログラム自体は通れないし、ツインを避けても恐らく自分の陰/陽とはいづれ別の形で対面を余儀なくされるでしょう。)のと同じように、ネガティブな感情を避けては人ととしても生を通過できないということになります。通過したと思っても、消化されなかったネガティブは環境やで出会う人等を通していづれ返ってきます。
いかに「ワンネス」や「すべては愛」が人間として(言ってる人も含めて)「根本的に無理」というのが解るかと思います。
逆に、完璧にはなれないのを承知の上で、バランスを整える為に指標としてそれを目指すことは不自然ではありません。例えば、自分が「怠惰(すぎる)」と感じたら、「(今よりは)勤勉になろう」と努力しますね。それと「完璧な勤勉とはこういうもので、それ以外はダメ」というのとは違います。(そもそも「完璧な勤勉」って何だろう。笑 「完璧にジャッジしない」とかも同じ類です。)
一つの見方として、何かが「よりできていない」と「よりできている」人はいて、それは許し等でも同じことですが、「よりできている(と自分では思っている)」人があたかも存在しない「完璧」を装って他者を非難するのは偽善だと思います。
他者を非難することが悪いとは思いません。どちらかと言うと、不当に非難を受け入れてしまうタイプの人に「嘘を見抜ける力」の大切さを伝えることを、このブログでは綴ろうとしています。
 
因みに、おまけのようで恐縮ですが、ツインレイに限らず、人生で感情を揺さぶられ過ぎて疲労している方へ。単純なことのようですが、ジャッジしないのでは無く、「抵抗しない」ことで楽になることって沢山あります。例えば、ネガティブな感情を感じた時に、「こんなふうに感じてはダメだ/感じたくない/感じさせられるのは不当だ」等、「抗う」と、ただでさえ重い荷物をキントレアイテムみたいに持ちあげてるのと同じように、更に辛く感じます。それが、感情をただ受け止め、抗わずに感じることを許すと、重いわ−とは感じても、より自然なポーズで荷物を持つように、「ただ不快」という状況に変化し、気持ち的に楽になります。つまり二次被害が出にくくなるんですね。これはネガティブな状況も同じで、何か起きた時、それをどう理解するかは私達次第です。そして個人的な状況の理解は、感情と密接に関係しています。
 
いつもながら「考えながら書いて」いるので、まとまりの無い記事になりましたが…お付き合いありがとうございます。
 
Pink Pig でした。