ツインレイと発達障害?

こんにちは、Pink Pig です。
 
時々、ツインレイ(特に男性)と発達障害を結びつけるような記事を目にします。
発達障害は、今やツインレイに限らず社会的に人数が増えて(もしくは以前より認知されて?)取り上げられています。
私の主人は、前妻からあなたはアスペルガ−だと言われ、それについ学んで、検査を受けたものの、正常であるという結果が出ました。(INTJとアスペルガ−ってちょっと似たところがあるんです…INTJは障害ではありませんが。)その上、前妻がADHDであることが後で分りました。恐らく彼女は夫に自分の恐れを投影していたのでしょうね。自己愛性パーソナリティ障害者でもありましたから、自分が「障害者」として気づかれるのが怖かったのだと思います。
 
ツインレイとは直接関係無いのですが、最近のスピリチュアリティには、ADHDやアスペルガ−をスターチルドレン等と結びつけようとするものもよく見られます。私はこれには懐疑的です。私は障害は「受け入れる」ものではあっても、「自己正当化」するものでは無いと思うからです。人間皆パーフェクトではありません。短所も含めて自分を愛する努力をしなければいけません。でも、問題を問題じゃ無いとするのは逃げだと思います。では何が「問題」と認知すべきでしょうか?人それぞれ答えがあると思います。
 
社会的には、皆と同じように社会生活を営むのに支障があるレベルの障害/特徴を「障害」と呼びます。「社会に馴染めないのはあなたの問題ね。」というスタンスですね。私個人的には、少し違った見方をしています。平たく言うと、あなたの特質そのものが「ネガティブなカルマ」をあなた自身に呼び寄せるものだったら、それは本人にも、他者にとっても「問題」と呼んで違和感なく感じます。
また、何に「問題」を感じるかは本人にもよります。そうそうそこまで開き直れる人も本当の意味ではいないとは思いますが、例えば「私何か人から嫌われてよけられちゃうけど、私そんな自分大好きだし、生活にも不自由感じない!」と心から言えれば、その人は自分の問題を「問題」とは感じないでしょう。(心理学的には、人間の幸福は他者との関係が大きく関与するので、もし本当に問題と感じなければ、特異な脳の造りなのでしょう…)でも、本人が「私なんだか生きるの苦しい。人と通じたいのに通じれない。」等と感じていれば、それは本人の「問題」で、他者の問題では無いので、本人が自分の為に状況を改善する努力をすべきです。(どっちに否があるとかいうのとはちょっと違います。)
 
まず私の言う「ネガティブなカルマ」ですが、あまり大きな声で言うのは好まれないかも知れませんが、実際のところ、発達障害を持つ人々には共通したネガティブな性質があります。(皆が皆ではありません。自分に向き合って、向上しようと努力している人達もいます。また、ポジティブな性質もあります。)それは自己中心性であったり、他者に依存的且つ攻撃的な幼児性であったり、客観性や想像力に乏しく、人の気持ちを考えずに行動・発言するのに、自分の気持ちや欲求を声高く主張し、他者が自分の気持ちに沿うことを求めるエゴの強さであったり、感情のコントロールが上手くできず、物事が自分の思うどおりにならないとすぐにキレる傾向であったり…
これらの特性を「性格」もしくは「個性」と片付けて、表面的に「受け入れた」として、さてその人は本当に幸せな人生を送れるでしょうか…?
人と自分は、切り離したくても離せないものです。他者は自分の鏡でもあります。人を傷つけて、人に嫌われて、人を恨んで、それでも「自己愛」と「幸せ」を手に入れようと言っても、人間の精神の構造上無理があります。
 
私の主人の子は非常なグレーなエリアのADHDを持っており(社会的生活は過去に問題があり、今は特にありませんが、ADHDに見られる苦労はあります。)、自己愛性パーソナリティ障害の親に育てられ(これらの障害はどうやらリンクすることが多いようです。)、はっきり言うとあまりのエゴの強さから人の鼻つまみ者となり、本人も非常に苦しい人生を送っていました。自分の問題を直視するよう何度も働きかけられ、本人が努力した今でこそ、数年前とは似つかないポジティブな人生を送っています。まだまだ課題は残りますが、もし本人が自分の問題を人のせいにしたまま、また自己を顧みず正当化したままで、幼稚な他者/社会批判や、自己称賛/自己憐憫に生きていたら、そのまま孤立して不幸を感じて生きる人生だったろうと思います。
 
カルマとは残酷なものだと感じます。本人が改善しようという意思さえ持てれば改善が望める発達障害とは別に、先天性の自己愛性パーソナリティ障害のように「ほぼ改善できない」障害もあり、「そういう脳で生まれてきた」人々は嫌でもネガティブなカルマを増やし、背負って生きています。神の意思とは、それほど理解に苦しむものです。一回死んだら、神様にからくりのほどを聞いてみたいです。
 
話しをツインレイに戻すと、私の主人は特に発達障害として認められるものは無いようですが、精神的には多くの問題を抱え、とても苦労してきました。回避依存やその他の精神問題はツインレイ男性に多いとされますが(私からすれば、ランナーもチェイサーも精神的に大きな問題を抱えています。)、それらは「受け入れた」上で「改善」するものではあっても、「許容する/甘やかす」ものでは無いと私は思います。後者をしてしまうと、お互いに不幸になるからです。「宇宙人だから」とか、「魂は自由だから」とか言い逃れしないで、人間として向き合わないと、自己欺瞞は深まるばかりでしょう。
 
主人の場合、人より圧倒的に優れたIQを保持していますが、歴史的に見ても、そういった人は共感力、自己を客観視する能力等の社会性を欠き、自分を理解し得ない他者を呪うケースが多いのは興味深いことです。功績を残しても、幸せな人だったようには見えません。「(頭が良すぎて)理解されなかったから偏屈になった。」とも想像できますが、本人が「他者を理解しようとする、もとい自己を改善するというスタンスが欠けていた。」のも事実だと思います。人より優れたものも、劣ったものも、脳のつくりの違いが大きいので、「そうであるもの」を嘆いていても状況は改善しません。主人も、自分のことを私から指摘されるようになってから、段々と自己を客観視することができるようになっていき、今では自己反省を社会生活の中で自主的に行う様子も見られます。
 
人の指摘を受け入れる(鵜呑みにするのでは無く、真摯に耳を傾ける。)のは、その他者への信頼がまず不可欠です。主人は自己愛性パーソナリティ障害の親や前妻から、不当な中傷や嘘を並べられて生きてきたので、他者からの批判はまず自己への攻撃であり、真摯に聞く価値の無いものというスタンスに凝り固まっており、最初は話し合いに苦労しました。でもめげずに関わって行くうちに、徐々に信頼を学び、自己改善が自分の為になると感情的にも合点がいくように変わっていきました。
 
発達障害を起因するものも、その他「一般的」と呼ばれる人の中の葛藤も含めて、私達全員の中に、大なり小なり何らかの「問題」は存在します。問題を問題として受け入れるのも自己愛だと、私は思います。
 
※追記:私の知人の一人が、最近ADHDと診断されたそうです。彼女は自分のことを「エンジェル」と呼び(ドリーン・バーチューの影響?)、オンラインで素人カウンセラーのようなことをしてお金を儲けようとしていました。今はめっきり辞めた様子ですが。アーティスティックな才能はあるものの、彼女の人生は問題が多いです。天使や使命だと人助けを建前に人からお金をとる前に、自分の問題と向き合った方が周囲の為ではと、素朴に思います…

 
Pink Pig でした。