ツインレイとジャッジメント

こんにちは、Pink Pig です。

 
「はじめに」の追記にも書きましたが、私と主人のプログラムの進み方に、ツインレイに一般に言われていることと特に異なる点があるので、ご参考に記しておきたいと思います。
ツインレイは「無償の愛」を周囲にふりまくようになると言われます。それ自体は、正直私には何のことを言っているのかよく解りません。私は特に今に限らず、昔から人を助けたり、喜ばせたりするのが割と好きですが、際立って人より他者に貢献しているとも思えません。例えばボランティア活動をしたら、無償の愛を与えていることになるのか?「見返りを求めない善意」という意味では、通りすがりの人に笑顔で挨拶するのも、ある意味無償の愛なのでは??「無償の愛」が具体的にどういった意味合いで使われているのか解らないので、それはとりあえず置いておきます。
この「無償の愛」とよく混同されているようで、余計に判りにくいのが、「すべてを受け入れる」、「愛の存在になる」等など… 一見物事や人に対する「裁きの放棄」を促されているようにも聞こえるのですが…
 
私と主人のプログラムは、ぶっちゃけ「他者を裁くことを学ぶ」連続でした。この「裁く」とは、自身と宇宙の裁きを混同した傲慢な意味合いで無く、「悪いものは(自他とも含め)悪いと認める」、「嫌なものにはNOと言う」等、自分の意見や感情を尊重する先に見えるジャッジメントです。
主人は一家のスケープ・ゴート(生贄)として育てられ、何でも「とにかく受け入れる」ことを強要されて育ちました。その結果、「愛」の建前と共に、自分に頼りながらも毒を注いでくるような他者を「無償の愛(のふり)」でもって受け入れようとし、精神的にズタボロになりました。
でも、その「無償の愛」は実は大嘘だったんです。実は近しい人達が大嫌いで、結果主人から彼らにも多大なダメージを与えていました。主人の精神回復は、そんな自己欺瞞から徐々に目覚め、聖人を気取っていた自分を取り払い、「ジャッジする自己」を認識し、容認していくところから始まりました。
 
人は万人の神ではありませんから、一個人が「神の裁き」を与えることはできません。(「その人の神の裁き」は与えられますが。)「神/宇宙の裁き」は、私達皆、嫌でも受けるものです。では、私達個々人の裁きとは何でしょうか。
不当に傷つけられたら、自分の為に立ち上がるのが自然です。大切な人を傷つけられたら、その人を守るために戦いたいと思うのが自然です。人的道徳に反した行動を目にしたら、社会を守るために罰したいと思うのが自然です。裁かないことが愛のためであれば、裁くこともまた愛の為です。
 
また、「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という記述も割とよくありますが、大きな視点で見れば、そんなものはっきり言って「言いよう」です。ジャッジするもしないも(しないように促そうとするのも)、すべてエゴだからです。私達は皆神に「そうゆうふうになるよう」造られています。
例えば、あなたが誰かにジャッジされた時、それがあなたの苦しみになったとします。個人として苦しみは避けたいでしょうし、大概避けようとするよう造られているのがあなたですが、その苦しみは神からあなたの成長の為に与えられたとも言えます。
もしくは、人にジャッジされたことにより、あなた自身が自分に不安や疑問を感じたとします(多くの場合、その不安はジャッジしてきた他者への攻撃/苦手意識となって表れます)。それでいいんです。胸を張ってジャッジメントを拒否できない限り、あなた自身の内面に迷いがあり、それに向き合い消化仕切るチャンスを与えられています。(最終的にジャッジメントと同意するか否定するかが根本の問題ではありません。)
人は自身の自身に対するジャッジメントが怖くなければ、(現実的に環境に影響される場合を除いて)他者からどう思われようが、言われようが気にならないものです。むしろ、「そんな風に考える人もいるんだ」と面白く思えるでしょう。なかなかそこまで達観するのは難しいですが、別に達観してなくていいんです。自己欺瞞に陥ってみてこそ学べる自己肯定ですから。
 
「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という人は、その人のエゴからそう言っています。そしてそれも、神にそう言うよう造られてのことなので、その人の言葉を必要な時に聞いた人は救われます。そういった意味で、その人もそれでいいんです。
ただ混同すると危険だと思うのは、「神の意思」が「個人の意思」に相反することもままあるのは自然なことで、個人が神になろうとしても別に「正しいことをしている」わけでは無いということです。
それをミヒャエル・エンデの「果てしない物語」はよく表していると思います。
 
ネバー・エンディング・ストーリーとして映画化もされましたが、是非原本を読むことをオススメします。児童書と侮るなかれ、とてもよく考えられたお話です。
物語のステージは、主人公の少年バスチャンの住む人間世界と、ヒーローであるアトレーユの住む本の中の世界ファンタスティカの大きく分けて2つなのですが、ここでは具現化した「神」のいるファンタスティカに関して話します。
ファンタスティカは人間の空想や、求める意思によって造られますが、そこに「幼心の君」という神(バスチャンには、少女の形をとっています)がいます。ファンタスティカが「虚無」に侵されてピンチになった時、「神」は自ら人間の子を呼び込んでその世界を救おうと動きます。ここで面白いのが、幼心の君は、ファンタスティカの住人の誰が良くて、誰が悪くて、誰が重要で、誰がそうでなくて、といったジャッジをしないということです。彼女にとって、ファンタスティカのすべての住人には等しく価値があり、尊いものです。それがその物語の中の「宇宙」であり、神の視点ですね。
 
だ け ど、内心何を思うかは別にしても、もしファンタスティカの住人そのものが、彼女と同じメンタリティで行動してしまうとどうなるでしょうか。例えば、ヒーローであるアトレーユは、一族のしきたりとして雄牛(だったと思う…)を殺そうとしますが、もし彼が「お前も私も神の目には同じ価値があるから、お前を殺さないでおこう」とか。それはまだしも、もしくは物語内の「悪役」に滅ぼされそうになっている時に、「おまえを裁く資格は私には無い。だから潔く殺されよう。」とか…
そうするとどうなってしまうかと言うと、アトレーユは「ヒーローとしての使命を全うできない」、つまりヒーローキャラとして存在できなくなります。お話が「お話が進むべき」方向に進まないですね。それは神の意図に反することです。(実際のところ、反しようったて反せないのも神の意図ですが。)ヒーローは多かれ少なかれ、「お前が間違ってる!俺が正しい!」、もしくは、「俺は俺の道を行く!邪魔する者は排除する/邪魔はさせない!」という信念を持って行動しています。(個人が利益を追求する場合も、宇宙愛を説く場合でも、このメンタリティは基本的には同じです。)たとえそれが「神のみ心に沿って」の行動でも。
 
少し言いたいことが伝わってきたでしょうか…
幼馴染の君が善も悪もすべてを大切にし、ジャッジしないのは、つまり「ヒーローはヒーローとして他者をジャッジして、戦って、苦しんで/喜んで、ヒーローとして機能してくれたらそれでいい」、「悪役は悪役として他者をジャッジして、退治されて/企てに失敗して、苦しんで/喜んで、悪役として機能してくれたらそれでいい」ということです。(ヒーローや悪役を定義づけるのは読み手の方ですが。)なぜなら、「それでこそ物語が語られるから」。私達は皆、個々人の人生のメイン・キャラであると同時に、宇宙が書いた壮大な物語を紡いでいるキャラクターの一人に過ぎません。
 
つまりのところ、「ジャッジしない」と個人的に決めたから実際に神に近づけるのでは無い、ということです。あなたがジャッジしないことで救われる人もいれば、逆に救われない人もいます。自分で自分を裁きたいのに裁ききれない人は、実は「人に怒られたい/正されたい」欲求も持っており、そういう人は「怒れない親」が多い現代に増えているようです。わざわざ他者に正されようとお金を払う人達もいます。自己欺瞞に苦しむ人は、逆にジャッジされて救われます。自己欺瞞に向き合いたく無いけど、無意識に向き合おうと、他者の自己に対するジャッジを促す人もいます。つまり、ジャッジしない人に良い意味と悪い意味の両方があるのと同じように、ジャッジする人にも良い意味と悪い意味の両方があります。
 
あなたが他者にジャッジされたくないから、他者をジャッジしませんと公言して、ジャッジしてくる人を非難するのは欺瞞ではないかと、私は思います。(だって非難するあなたもジャッジしてるから…)ジャッジメントは人間である以上、理不尽なものもそうでないものも、私達は受けます。神が受けさせます。何を理不尽と考えるかは個人によりけりですが、「個人の意見」は「神の意思」とは無関係です。(裏を返せば、万人の「個人の意見」が、まるまる全部「神の意思」です。)「神に愛されて」生きようというのであれば、まずあなたが自己を裏切ること無く、自身から隠れること無く、感情と思考の不一致を受け入れ、「真に自分の信念に忠実に」生きることではないでしょうか。
 
私達のツインレイ・プログラムは、「ジャッジしろ(そしてジャッジする自分をネガティブにジャッジするな)」と言っています。そうでないプログラムの方々が大半だというのは全く結構ですが、同じようなマイノリティで、疑問を感じている人に届けばと思って書きました。
 
Pink Pig でした。
 
 
 
 
 

ツインレイ・プログラムと自分の人生

こんにちは、Pink Pigです。

 

私は自分のことを一応「ツインレイ」と認識していますが、その理由は単純に、私の経験してきたことや、していることが、「他に説明がつかない」からです。(ツイン・ソウル、ツイン・フレーム等についても読みましたが、当てはまらない箇所の方がツインレイよりかなり多いです。)

「ツインレイはこういうもの(それ以外は違う)」といった記述は沢山読みましたが、それら自体が互いに矛盾しているし、私は特に、そこから「ツイン相談」等のビジネスに繋がっているブログに懐疑的です。皆がそうとは言いませんが、ビジネスをしている以上、その人は自他共に「真実を知っている(べき)」というプレッシャーに囚われるからです。逆に、真実にピュアに近付こうとするならば、「無知の知」から始める方が近道だと思います。

 

スピリチュアルな事象について「これが真実です(それ以外は違う)」と言う人は、何を根拠にそう言っているのでしょうか?自分のケースがそうだったから?マジョリティがそうだったから?はたまた、どっかの誰かがそう言ってた/書いてたから?あなた自身が神に聞いたから?(それ、あなたの神でも、他者の神とは限りませんが…)あなたが正しいと、あなたが感じたいから?

上記すべて、「これが真実です(それ以外は違う)」と謳うには何も根拠がありません。「おそらくそうである可能性(が高い)」ぐらいのものです。

何を信じるか信じないかは自己責任ですが、あまりにも具体的根拠の無いことを、救いを求める他者に「絶対的真実です」と売るのは罪深いことではないでしょうか。スピリチュアルは、誰も立証も反証もできない分、言いたい放題なところはあります。

 

私達は無知です。お互い助け合って、または触発しあって、何とか知識を得ようとしますが、ツイン・ブームそのものが歴史が浅く、その上色々道徳的に間違った方向にも使われています。カウンセラーが自身も精神的に問題を抱えている場合が多い(のでカウンセラーを目指した)ように、ツインレイに聞けばツインレイの事実や、その真実が解るといったものではありません。はっきり言って精神問題はツインレイにつきものです。明らかに精神を病んでる人に、自分の人生のあり方を乞うのもいかがなものかと危惧します。勿論、個人の自由ではありますが。

 

今回何が言いたかったかというと、「ツインレイ・プログラム(に関して言われていること)に囚われないで、あなたの人生を生きてください」ということです。プログラムに関して知識を得ることは有益だと思います。(そのソースは曖昧であるということを踏まえた上で。)私はその上であえて、「自分の信じるように」生きました。それがツインはどうするべき、どうなるべきといったことと矛盾しても。そして結果的に、どうやら大まかには結局プログラム通りに進んでいるようなのですが、プログラム云々に囚われなかったのは正解だと感じています。勿論、私の正解があなたの正解とは限りませんが、「精神的、物質的安定及びツインの揺るぎない愛」を求めている方々にとっては一つの正解だと思います。

秘訣は、「精神的、物質的安定及びツインの揺るぎない愛」のゴールに囚われないで、自分の信じるようにすることです。あれ、矛盾してますか(笑

 

もし本当にツインと離婚すべきと思ったら、していたと思います。もし子どもがいなかったら、ツインに沸を切らして他の男性と恋をし、関係を持ったかも知れません。(特に決まった相手がいた訳ではありませんが、当初の私は、男性経験ゼロであることからツインに馬鹿にされていると思っていました。)もしそれらの決断をしていても、それが「間違った」道だったと、私は思わないでしょう。ツインと会って別れたことも、人生のお勉強で、失敗とは思わなかったでしょう。私の人生は、少なくとも今の所ツインレイ・プログラムに沿って進んでいるようですが、ツインレイ・プログラムが私の人生という訳ではないからです。

私の人生は、私が何に翻弄されようとも、あくまで私のものです。籠に閉じ込められた鳥でも、籠の中で精一杯生きます。もし鳥の行動や感情が逐一コントロールされていたら、それはもはや機械で、命では無いでしょう。(私達は神に造られた精密な機械です、という観点は、ここでは置いておきます。)

 

だからと言って、私は「すべてジャッジしないで、すべて受け入れたらハッピー!」といった根本的な人間否定に賛同している訳ではありません。ツインレイ・プログラムや、他のツイン達がどうこうと言ったジャッジメントよりも、一人間として大切なことを基盤にジャッジすることを忘れない方が良いと思うのです。

因みに「全くジャッジしない」というのは、私達の住む二次元では不可能です。「ジャッジしないで」という時点で、その人はジャッジしてます。ジャッジするしないは、あくまでバランスの問題です。「よりジャッジしないほうがよりいい」と言った単純なものでもありません。

 

自由は責任を伴います。どんなに無責任でいたくとも、私達は見えないカルマの掟を生きています。「こんな私/あなたでもオッケー」なわけではありません。「こんな私/あなたでも愛する努力をする」、「本当の意味で愛せる自分になる努力をする」からこそ生は尊いのだと私は思います。

「何でもいっか/気にしないでおこう」と放棄しようとする人ほど、元が何でも良いと感じれないので、その苦しみから逃げようとしているという面が多々あります。そもそも、ジャッジするのが自然な人の脳において、ジャッジすること/されることが苦痛に感じだした場合以外に、ジャッジメントを放棄しようという発想自体生まれません。

ただジャッジすることが良いわけではありません。ただジャッジしないことも良いわけではありません。バランスです。

 

話が逸れますが、私が現時点で少し悩んでいるのはアパシー(無感動)ですが、ツインの優しさや気遣いから治り始めています。(そうです、「精神的に頼れない」ことで有名なツインですが、それは特に最初のうちで、私達の場合はプログラムが進むと共にかなり改善しました。時間はかかりましたが…)

ツイン女性は孤高と言いますが、自らを振り返ると、無意識に孤高を選んでしまっているところもあったんじゃないかと思います。プログラムからも孤独に追い込まれますが、私のツインの好きな口癖は、「冬は夜が最も暗く、星がもっとも輝く時」です。自分の置かれた環境や、内面を含めて、暗闇にいないと見えない光を、ツインレイ達は見つけるように促されているのだと思います。

 

Pink Pig でした。

ツインレイについての忠告

こんにちは、Pink Pigです。
 
ツインレイについてネットであれこれ読んでいると、よく不思議に思うことがあります。
このブログを書き始めたきっかけの一つでもあるのですが、それは、私自身が、「別にツインレイでありたくないツインレイ」としてマイノリティのようだということです。私からすると、自身が「ツインレイ」の称号を受けるのか否かは、「果たして私の体験している不可解な人生がそれによって説明できるのかどうか」という興味につきます。後者は私にとっては重要なことですが、称号自体は正直どうでもいいです。
ツインレイを馬鹿にしているとか、またはツインレイである(らしい)ことを鼻にかけていると勘違いされたくは無いのですが、マイノリティ的な立場として、ついつい口調が批判的もとい挑戦的になることは否めません。(マイノリティってつい防衛的になっちゃいますからね。)
 
ツインレイについてのブログは、多くが自称ツインレイの方々が書かれており、ツインレイの素晴らしさをうたっています。そして、ツインレイ批判をするブログは(大変もっともなご意見の方々が多いのですが)ツインレイでは無いと自覚されている方が多いようです。
ではどうして私のように、「ツインレイだけど、正直ツインレイお勧めできないよー(笑」みたいな方が少ないのでしょうか。そもそもそんなブログ流行らないのかな。一ツインレイとしては、とても自然なスタンスだと思うのですが…
 
ツインレイに(というか、「ツインレイ詐欺」に)批判的な方々はもう十二分に書かれていると思いますが、私もあえてツインレイとして、彼女たちの意見に同意したいと思います。何に同意なのかと言うと、「ツインレイ探し」はおそらく止めたほうが良いということです。「彼はもしかして…」というのも、ツインレイ探しに含まれると思います。
 
一言で言うと、「ツインレイ甘くないよ」です(笑 この「甘くない」というのは、「あなたには対処できない」と言った意味では無く、そのまま「そんないいもんじゃないから…」ってことです。ツインプログラムが精神的にきついのは、皆さん聞いていると思いますが、それは「いつまで白馬の王子様を待ってたらいいの…」といったレベルのきつさではありません。飴とムチの、あれ、飴が無くないですか?!みたいなきつさです(笑 老婆心に、「あんたよしときなさいって」と言いたくなります。私の子どもたちには、できるなら一人でこんな経験させたくないです。
 
ツインレイ・プログラムは、神の愛、もとい自己愛を学ばされます。でもその教え方が超スパルタ(笑 お母さんみたいに「私がこんなにあなたを愛してるから、あなたも自分を愛していいんだよ♡」って教えてくれりゃいいのに、実際は「そんなに自分卑下するなら、一回踏みにじられたらちょっとは自分の価値にも気づくんでね?」みたいな…「そんなに死にたきゃ死んでみろや(そしたら命のありがたみもちょっとは解るだろ)」と大差ないロジックで「教えられる」んです。
自己愛に向き合うまで、愛なんかまともに感じられるもんじゃ無いですよ(笑 ツインは常に愛してくれますが、それが解っていても、自己愛が不十分だと満たされません。
 
大体、ツイン・プログラムって無理やりです。というか、ツインレイとして生まれている時点で人生はなから無理やりプログラムに乗せられてます。ここで言う無理やりとは、勿論個々の意識の範囲であって、「魂の時点で自分でそれを選んだのよ」と言われれば、魂の時の記憶無いんで、そうなんですか?としか言いよう無いですが…
ですので別に私は自己愛と徹底的に向き合う人生を望んだわけでも、望んでいるわけでも無いのですが、「そういうふうになっちゃってる」がここにいる一ツインレイの現実です。えぇ、主人にはそれはもう深く愛されています。えぇ、それが何であれ、何か神秘的な力に(いじめられながらも)がっちりサポートされているのを感じます。それを幸福と取るかは個々人の精神状態によるでしょう。運命にいじめられすぎた私は、現在に至っては無の境地に近づきつつあって、別段強く幸福を感じることはありません。時折「あぁ、自分幸せ者なんだなぁ」と他人事のように思いますが。
 
勿論、すべてのツインさん達が私のようで無いことも皆さんすでにご承知だと思います。ツインレイの甘美さや偉大さといったイメージを追いかけたい人は、そもそも私のような口調のブログを読んでいないでしょうから、こんなツインレイのカミング・アウトが実際誰の役に立つのかは分かりませんが…
素敵な恋愛が目的ならば、まずツインレイはそれに含まれないと思ったほうがいいでしょう。自己愛、もとい神の愛を感じることを極めたければ、別にツインがいなくとも、あなた自身はそこにいます。あなたの意思さえあれば、自己と向き合うことはいつでもできます。(繰り返しますが、ツインレイは強制なんです…自己から逃げようったって逃げさせてくれないんです。)
 
強制的に、契約書にサインした記憶も無いのにツインレイのレールに乗せられた者からしたら、ツインレイのシステムを知り、知識を深めることは死活問題になりえます。それまで通りエゴのロジックにしたがって生きていくのにどうしても限界を感じる時が来ますから。でも、自分がツインレイかどうかも分からないうちからツイン探しをするのは大変危険です。むしろそんなものに気を取られずに、ツインでない、できれば普通に幸せな人生を生きて欲しいです。
 
ツインレイはヒーロー・ヒロインじゃありません。個々のツインのシナリオは、確かに個々をヒーロー・ヒロインのように感じさせる物が多いですが、健全な自己愛を持ってしたら、人間誰しもが皆ヒーロー・ヒロインです。皆自分だけのストーリーを生きています。そのストーリーの中で本当に自身を主役と思えるかどうかは、あなたにかかっています。
ツインレイが自己愛に向き合わされるのは、そもそも私達の自己愛が不完全だからです。不完全であればあるほど、試練もきついものとなるでしょう。全く完全な自己愛なんてものがあるのかは解りませんが、少なくとも、「ツインレイになりたがる」ということは「自己愛不足になりたがる」と同義になってしまうということはご理解いただけるでしょうか。そんなものに時間をさくよりは、まず一人で自己と向き合ってみる方が幸せへの近道では無いでしょうか。
 
個人の幸せにタイトルはいらないはずです。幸せは心で感じるものですから。
 
Pink Pigでした。
 

ツインレイとシナリオ

こんにちは、Pink Pig です。
 
ツインレイ・プログラムが大分進んでくると、個々のプログラムに解き明かされる「シナリオ」があるのが解ってきます。
現実の観点とは別に、スピリチュアルなある種のストーリー・テリングのような、「こういう裏物語だったのね」的な…
この「シナリオ」は、どうやらツイン一組ごとに違うようです。似通ったシナリオを持つツイン達も多いですが、ツイン個々人の生きてきた人生や、学ぶべきことが反映されているので、他者のシナリオがあなたのシナリオに当てはまるとは限りません。
 
例えば私と主人の場合、どうやら「裏設定」は、あくまでも「魂の上で」、主人は私の「本当の母であり、兄である」ことが、それぞれの人生経験や、それが当初お互いを見るのにどう影響したか、お互いが何を主張しようとしていたか、また四柱推命のヒント等を通して解ってきました。また、私は主人の「本当の母であり、妻であり、子である」ようです。この「本当の」シリーズは、現時点までで出てきたものの羅列なので、今後まだまだ続きがあるかも知れません。
 
自己愛性パーソナリティ障害(主人の両親と前妻が持っています)や、ADHD(主人の前妻と、主人との子を含める前妻の子どもたちが持っているようです)といった障害についても、どうやら私が解き明かす使命だったようです。(私の両親の親、私の祖父母が、自己愛性パーソナリティ障害を持っていることが解りました。両親はつゆぞ知らなかったようです。また主人も、今は私との子として育てている前妻との子どもが、ごく軽度のADHDに影響を受けていることに気づきませんでした。)主人はその人生から、障害に対して毛嫌いというか、排除的な思考を持っていたので、今後それらを自分の人生として(肯定や正当化では無く)素直に受け入れる学びを促されるかも知れません。
 
私は主人のプロポーズを受けると決意するまで、近しい男友達もおらず、男性とは手も握ったことが無かったので、過去の恋愛関係がどうのというシナリオはあまり出てこないようです。また、自分が自分に対して社会的に理不尽なことを許容させようとすることも少なかったからか、相手から理不尽なことの許容を求められることもとりわけてないです。(でも精神的な面ではありました。私が自分を「我慢」させていたことを、相手が無意識に我慢することを強いてくるので、それに対してブチ切れた時に「自分に対する自分への呪縛」が薄れ、相手も速やかに対応が変わります。)
 
他のツインさんにも多く見られる、「男性性、女性性の再認識」はかなりあります。シナリオからすると、主人は幼少期から自身の男性性を抑圧される環境で育ち、私は現代のフェミニズムや男女平等の影響を特に海外で受けました。しかし、私達の関係の間では、陰陽の通り、男性は与え、働きかける、女性は受け取って、受け入れるという関係を構築しないとうまく行かないのだということを学ばされました。また子育てを通し、夫が妻に対して陽であるから、妻は子どもに対して陽であることができるというサイクルにも合点がいきました。(逆に夫が妻に対して陰でいると、エネルギーが枯渇した妻は子どもに対して陽であることの持続が難しくなります。)
 
一つ私が不思議に思っているのは、どうやら私達のシナリオに、「キリスト」のテーマが潜んでいることです。
私は無宗教で、主人は幼少からキリスト教に対する反発が半端ないです(笑 私もキリスト教に限って特に愛着はありませんし、回教する気もありませんが、私達のシナリオにちらほらとキリストの影が見え隠れするのが気になっています。
例えば、私達の第一子は女の子でしたが、生まれて間もない彼女が私の上に横たわっているのを主人が写真に収めると、彼女の手がキリスト教で使われるハンドサインだったり。また現在第二子を妊娠中なのですが、まだ性別の分からないころ、お店で買ったカードに謝ってキリスト誕生のカードが入っていたり。主人が第二子の妊娠を祝う際に、何故か突然「これは本当のクリスマス・パーティ」と言い出したり。(本人何でそんなことを言い出したかよく分からないそうです)笑 その他、小さなこと色々と、キリストがヒントとして出てきていました。
第二子は男の子なのですが、よもやキリストのように自らを犠牲にする運命を歩くことになりはしないかと、今から気が気ではありません(笑 私はキリストが特に嫌いでは無いし、キリスト教も、その他の宗教のように美しいところもあれば、問題もあると思っているので、極めてニュートラルです。主人は前述した通り、キリスト教の社会的に腐敗した側面に憤りを感じている人なので、正直「何でキリスト?」という感じで解せないシナリオです。まぁ宗教とその起源をそもそも混同すべきではないのかも知れませんが。私達個人の意思とは関係なく、集合意識が働きかけているのかなぁとも推測していますが、何せミステリーです。
(※追記:「サナンダ」って「キリストのハイヤー・セルフ」ってことだったんですね。すみません、ツインレイのそんな基礎的なこと知らなくて… 私はチャネリングが実際のところ「何」にチャネリングしているのか知らないので、未だにこの「キリスト」は、神なのか実在した人の霊なのか集合意識なのか、判断しかねます。)
 
そんな感じで、様々な側面から明らかになってくる個々の「シナリオ」。慣れてくるとちょっと楽しい謎解きゲームのようにも思えてきます(笑 特にやっきになって明かそうとしなくても、「シナリオが分かればプログラムが進む」というよりは、「プログラムが進むと自然に徐々にシナリオが明らかにされてくる」ものだと思いますので、リラックスして運命が描いてくれたあなたのストーリーを、時と共に楽しめばいいのではないでしょうか。
 
Pink Pig でした。

ツインレイと期待の裏切り

こんにちは、Pink Pig です。
 
このブログ、ブログの何も知らないで始めて、Google検索しても出てこなかったのに(検索に乗せるやり方があるのは知っているのですが、パソコン音痴だからよく分かんなくて…笑)、地味に読んでくださっている方々がいるようなので、少しでも有益になる人がいればと思って書いています。不定期ですが、子育ての合間に趣味で書いていることをご了承ください。

今回は、ずばり(?)「期待」について、多方面から見ていけたらと思います。
ツインレイの相方といると、相手が「ミラクルに」期待を裏切ってくれることが多々あります(笑
もう、「一体どうやったらそうなるの?!」レベルに。どうやら他のツインさん達にもよくあることのようです。
これが「なぜ起きるのか」は、はっきり言って私には現時点では解りません。よく「期待は重いエネルギーです。相手をコントロールしてはいけません。」的スピ路線で書かれている方も多いですが、私の経験はそもそも(起こる現象は同じなのに)「ツインレイはこうするべき」理屈に矛盾することが多いので、もし迷っているツインさんがいたら、こんなケースもあるんだと参考になればと思います。
 
まず、「期待」とはなんぞや。ごく小さなものも含めたら、期待は私達の日々の生活から人生まで、常につきまとうものですね。お昼ご飯におすしを買っといたら、美味しいだろうなと期待する(でもまずかったら期待ハズレでがっかりしちゃう。)誕生日が近いと、いつも祝ってくれる友人が今年も祝ってくれるだろうと期待する(で、すっぽかされたら逆に何か関係に問題があるのかと悩んじゃう。)
ツインどうこうに関わらず、「ほらー期待するからよー。そもそも期待しなければ、人生で(ツイン相手に)がっかりすることなんてなくなるのよ。」…そりゃそうですよね。ごくごく当然のロジックです。でも、じゃあ何でそもそも人は期待するのだと思いますか?
期待は喜びの感情と密接な関係があるからです。喜びたいから期待するのです。特に期待していなかった良いことがあると、私達は喜びますが、その喜びは期待が叶う喜びよりも一時的なものです。成長の過程でもそうですが、目標を立てて、努力し、やり遂げるといったサイクルの繰り返しが満足感と、成長へのモティベーションを生みます。流れって人間の脳にとって大事なんですね。
 
その一方で、「期待を”少なくしたら”、人生楽になる」というのもとても最もで有益なアドバイスです。自分や人に期待しすぎる人は、その分がっかりすることも増えて、人生しんどくなりますね。そういう人は周囲からも「重い人」と疎まれがられやすいです。
もうお決まりですが、「自分で自分を幸せに(自己愛)」できる人は、精神的に自立度が高く、他者に期待を寄せて依存しすぎることが少ないんですね。
要するに、バランスの問題です。人間や人生のすべては、ぶっちゃけ陰陽のバランスです。陰だけでも陽だけでも成り立ちません。苦しむからこそ、喜びもあるんです。物も人も含めて、何が何でも「期待するな」と言うのは、「人間でいるな」と言っているのと恐らく大差無いです。(ツインレイが「人間卒業」を控えた魂だからという説もあり、それに対しては何も言いませんが、そもそも人間として生まれたからには、人間としての生を全うして、得るべき学びに正直に向き合いたいというのが私のスタンスです。)
 
また、少し話は逸れますが、期待するしない一つをとっても、人によって「やりやすさ」があります。遺伝子と脳のつくりです。(できが良い悪いという話では無く。)MBTIをよくご存知の方なら知っていられると思いますが、人はそれぞれ脳の「機能」の段階で差があります。脳のタイプが、個人の嗜好や、思考パターン、感情処理傾向等など、様々なことに関与しています。
私の印象では、ツインレイとしてプログを書かれている方々は、INFJもといENFP女性が多いように思われます。詳細は書きませんが、例えば多くの他者にとって難しい感情処理でも、それができやすい(もしくはできた気になっている)脳のタイプがいるということです。では、その人達が他のタイプに「私できた(つもりだ)から、あなたもそうしたらいい」と言うとどうでしょうか?
人には得意不得意を含めて個性があり、どのタイプが劣る/秀でるといったものではありません。現実にある「違い」を認めないと、「あなたもそうしたら」と期待する方も、「どうして私にはできないの」と悩む方も、苦しくなります。だから私は、「あなたにとって正しいことはあなたの神が知っている」と強調したいです。
要するに、「苦しいんだったら、苦しまなきゃいいのよ。」的、スピに多い人間性を無視した安直なロジックは、役に立つ人と立たない人がいるということですね。
 
前置きは長くなりましたが、ではどういった「期待はずれ」なことがツインレイで起きるのかと言うと…これは私と主人の例ですが、言ったとおり「ミラクルに」期待を外してくれます。
例えば、私は外国住まいで、現地の言語が話せません。(家族とは英語です。)そこで主人に、「誰それにこれ聞いといてくれる?」とお願いします。問題なくOKされます。直前にもう一度、主人が忘れないように念押しします。OK, Ok...そして、「返事どうだった?」…「聞かなかった」…はあああっ?!!
例えば、主人が私を喜ばせてくれようとします。「今日これ買ってきてあげるよ。」「本当?」「僕の気持ちを表したいんだ。」「ありがとう♡」私は楽しみに主人の帰りを待ちます。で、…あれ?あれれ?もしかして忘れてる?!「僕の気持ち」なんぼのもんよ?!笑
他のツインさん方はこんな一見ダメ男的な、くだらない話じゃないのかも知れませんが(笑 でもじゃあ主人が真心の無いダメ男なのかと言うと、そうではありません。主人は深く愛してくれ、約束事も、約束した時は本人は本気なのです。当然ながら、こんなことも毎回起こる訳ではありませんが、他の人とでは起こらないのに、何故か主人とは不自然なほど頻発します。先週も、「今回はいつもみたいに意味不明な忘れ方するのやめてね。とにかくしてね。」と前日に釘さした約束をすっぽかされ、雷落としました(笑
プレゼントの例は、私の主人への期待が彼によって造られたのは言うまでもありませんが、ただの伝言の例などは、主人どうこうとか関係無く、ただ必要に迫られての話しです。もし「期待」がスピリチュアル的に主人に何らかのプレッシャーをかけて、それが避けられているとしたら、それはエゴどうのこうのを越して、もうエナジー的に何故か「そういう仕組み」としか言いようが無いですね。だからと言って、主人が何か成し遂げるのを「一切期待しない」なんて、私には当然できません。結婚生活ってリアルに二人三脚ですから(笑 約束守れない人と一緒に社会生活できやしませんから。(こんな主人でも、他のことはしっかり責任持ってしてくれるんですよ。)
 
何が不思議かって、主人本人も、このミラクルな「期待外し」が一体どうしてできるのか分からずに真剣に悩んでいるのです。私は現実的なので、主人の生い立ちからくる精神的期問題(無意識に人の期待や指示を抑圧と感じ、拒否、抵抗しようとする)では無いかと推測していますが、主人自身は何か悪霊にとっつかれていると思っているようです。除霊するとか言ってました(笑 それはもう見事な外しっぷりで、私が主人にオンラインで送ったメッセージをすべて読んだにも関わらず、何故か指示の箇所だけは「無意識に読み飛ばしてて気づかなかった。その他は全部読んだのに。」とか… 主人が私に悪意を持ってしているので無いことだけは明らかなのですが、何ともやっかいなこの「必殺ツインレイ期待外し」、当初はそりゃもうストレスでした。特に塵も積もると、笑って済ませてたことも面白くありません。
ただ、このトピックについて主人と何度も話し合っているうちに、当初は「喧嘩売ってんの?!」と怒っていた私も、「本当に悪気無いんだ。何で起こるのか分からないけど、この人だけのせいじゃ無いし、この人にもストレスなんだ」ということが理解できるようになり、そこまで気にならなくなりました。(っていうかむしろ主人が可哀想…)エゴを手放した訳では一切ありません(笑 「話し合い」という努力の結果です。
 
今回は不可解なツインの「期待外し」についてでしたが、初めに書いた通り、ツインによく勧められている一方的な「許し」や「受け入れ」とは全く逆の道を、私と主人は歩いてきました。そして、それが私達にとって確かに正しい道のりだったと言うことは、私達の人生が、主人のいたどん底からどんどん好転していっている結果からも解ります。
私は、「受け入れられないことは受け入れない」で、相手を非難しました。それは相手と決別したいからでは無く、相手に変わって欲しかったからです。「変わって欲しい」というのは、相手への期待で、誰にでも押し付けていいものでもありません。でも主人は、私の為に必死に努力して、私も必死に主人を導いて、そして現に変わってくれました。その変化が本人の為にも良かったことは、数年経った今でも、「変えてくれてありがとう」という主人の言葉に感じます。
恨みに思うことでも、「許せないことは許さない」で、気の済むまで怒りをぶつけました。それは相手をやりこめたいからでは無く、「許せないけど許したい」からです。主人はすべて耐えてくれ、何度も謝罪してくれ、結果、私は「自然に」過去の痛みが溶けてゆき、許せるようになりました。
私と主人の結婚は、当初でこそめくるめくエモーショナル・ドラマでしたが(大概主人が私が怒る要因をつくって、私が怒り狂って主人を追い回す)、今ではお互いに大分理解が深まり、あれっと思うことは落ち着いた話し合いで納得できるようになりました。不可思議なことは起こりますが、ツイン云々と言っても人です。お互い真摯な気持ちで話し合うというのは、いつでも人同士を繋げる有効な手段の一つだと思います。
 
長文になりましたが、誰かツインレイの「期待外し」の「本当の理由」もしくは「現実的に有益な対処法」を発見した方、是非教えてください(笑
 
※追記:書きそびれましたが、主人は私の期待だけでなく、自分の期待も(私には正直どうでもいいことでも)裏切ることが多かったです。時と共にかなり改善されていってはいますが。勝手に自分に期待して、一人でプレッシャーを感じて自分の期待を裏切る…自滅ですね。神経症の一症状だそうです。
私達にその溝を埋める理解能力がどれほどあるかは置いといても、スピリチュアルは、現実と矛盾しないものです。互いに相手がいないと成り立たない関係です。なので、スピリチュアル的に「なぜ」を説明するのも良いですが、現実的な「なぜ」を突き詰めていくのも、それはそれで価値ある行為だと思います。
 
 
Pink Pig でした。
 

ツインレイと「正解」

こんにちは、Pink Pigです。

 
今回はツインレイ・プログラム全体について、結構ぶっちゃけなことを書いてみようかと思います。何がぶっちゃけかと言うと、結論からすると「魂の修行に決まった道は無いでしょう」ということです。
やれツインレイ、ツインレイと、プログラム自体に救いを求めていると、色々自分を見失ってしまうことって多いんじゃないかなと思います。すがれば今は耐えきれるとか、ちょっとした心の安定剤に、または純粋に何が起きているのか知りたくて、知識を求めて…そんな感じなら、大いに巷に溢れる(っていうか、日本が突出してツインブームな気もしますが)情報を活用すればいいと思います。
では今回何が言いたいかと言うと、他のツインさん達のブログを読んでいると、「あなた間違ってるよ(だって私こうだもん。で、私正真正銘のツインだもん。)」的目線で話されている人が多いと気づいたので、あえて人生は魂の修行という大元の観点から、「間違ってるとか多分そもそも無いよ」的路線で書いてみたいと思います。
 
まず、私が非常に違和感を感じる、よくツインレイ・プログラムにおける「正しい」姿勢として書かれていること…
 
− 相手のすべてを受け入れる。
いやいやいや、あなた自己確立してないんですか?相手は子どもじゃないです。相手が受け入れられない相手自信をあなたが受け入てれしまったら、すでに一心同体でも無いです。相手の自己嫌悪と自己正当化にまで同調してしまったら、結果的に相手を否定しています。
 
− 怒りや嫉妬といった、相手に対するネガティブな感情を手放す。
「手放す」んじゃなくて、感じ尽くした後に勝手に離れていくのが、人間心理の自然な作用だと思います。相手に対して怒れなかったら、相手を対等な人間として認めて無いのでは…嫉妬もできなかったら、相手を「人間として」愛してはいても、「男性として」愛しているか疑問です。なぜなら嫉妬等は、私達が人間として造られた機能の一部ですから、人間的作用があることを否定するのは、あなたを愛する創造主を否定するにも等しいのでは無いでしょうか。(ツインを「男性として」愛すべきかどうかというのにも、正解は無いです。あなたはどうしたいんですか?)
 
− 現実的に問題があっても、本当にツインなら周囲の人が傷つかないからオッケー。
これは、そうである場合も多いのだろうと思います。が、本当に「オッケー」な状態で不倫等をされている方がどれだけいるのかは疑問です。自分を大事にすることは大切ですし、不倫や離婚そのものがただ悪いとは決して思いません。でもツイン云々以前に、やっぱり、罪も無い人、特に弱い子どもたち、を深く傷つけるのは良くないことでしょ…?子どもの了解を得て、精神状態を見ながら不倫する余裕のある人が、現実に一体どれだけいるでしょうか。(いないとは言いません。安易に自己正当化していないか疑問なだけです。)
 
− そもそもツインとはなんぞや。統合あるきで、目指すはライトワーカー?
目指さなくても、勝手にそうなって行くものなのだと思います。統合しなくても、プログラムのどの時点でも、それは一つの人生です。「あなたがこうできないからこうなっちゃうのよ」的語り口に惑わされることなく、まずは自分を大事にして、自分が心から幸せになれることを目標に生きればいいのでは。ここで言う「幸せ」とは、痛みを避けることではありません。痛みを越えてでも先にあるものに価値があると感じれる時は、「自分の為に」努力を惜しまないでください。ライトワーカーという言葉に胸踊るなら、目指してみるのもいいかも知れませんが、あなたの自信の感情や人生を、ライトワーカーという曖昧な言葉の犠牲にはしないでください。
 
少しとりとめも無くなってしまいましたが、なんとなぁく言いたいこと伝わったかな…
 
ここで少し、魂とカルマの話をしたいと思います。ここからは、「私が知っていること」では無いです。あくまでも「私が見聞きして、そういう観点もあるかなと思った」セオリーに基づいた意見です。
まず第一に、カルマの無い人間はほぼ存在しません。カルマ無い時点で人間じゃ無い確率超アップです。人間である限り、カルマの中で行きていくことはほぼ逃れられません。
よく私達は、負のカルマをつくらないで、良いカルマをつくったら幸せになれると考えます。それ自体は特に間違ってはいないと思います。でも、だからと言って「罵られた。でも負のカルマをつくりたく無いから、言い返さないでおこう。」とか、「裏切られた。でもカルマの為に、報復しないでおこう。」とかいうのは、精神学的、つまり私達の人間として造られた心の機能からして、非常に不健康であると言えます。まさに「スピ/カルマの奴隷」。「別に言い返す/やり返すほど相手に興味ないし。」というのとは違います。正当な理由で本気で憎んでいる相手を表面上「許す」のは、正しいことでしょうか?もっと言うと、なぜ私達に「悪を罰したい」という本能があると思いますか?その本能があるからこそ、人間は集団を、村を、社会を、守っていけたのです。社会に守られ続けることを選択しながら、世界平和を唱え裁きの放棄をするのは欺瞞というものでは無いでしょうか。あなたの代わりに、誰かが裁きと力でもって犠牲を払い、秩序を守ってくれているのです。
(もっとつっこむと、ツインに当初抱きやすい「愛憎入り混じった」感情も、複雑な関係を目の当たりにした人間として当然のものです。憎悪を燃やしきった人が、他者に「私は一山卒業したから、あなたはまず憎悪を感じないようにね☆」と言っても無理があります。)
 
例えば、あなたがレイプされたとします。その時あなたの親が、犯人を捕まえようとか、罪を償わせようとかいう気持ちが一切無く、「社会的措置でも何でも、相手を拘束するのは暴力だからやめようね。あなたにも私にも、悪いカルマになるからやめようね。代わりに相手を許したらスピリチュアル・レベルがアップするよ!ちなみにあなた、レイプされたのは、あなたにそれだけのことを受ける悪いカルマがあったからよ。」…と言われたらどう思いますか?あなたは親に愛されていると感じられますか?それよりも、「カルマ上等!私が何を背負うことになっても、あなたを傷つけた奴を許さないわ!今すぐ報復できなくて悔しい!」っていう親のほうが、仮に興奮しすぎた親をなだめなければいけなくなっても、愛されているとは感じませんか?泣いているあなたの涙を、あなたのせいにするのでは無く、一緒に寄り添って悲しみや怒りを感じてくれる人の方が、好きになりませんか?
この親の反応は、そのままあなたのあなた自身への対応ともなります。
 
話をツインレイに戻すと…
私があなたを愛するもう一人のあなたであったなら、こう言うでしょう。
相手にどうしても許せないことがあるなら、許す努力なんてやめなさい。強い怒りを感じるのなら、でもそれでも相手との関係にチャンスを与えたいなら、その怒りを相手に伝えなさい。もしそれで逃げて行く相手なら、あなたには相応しく無いよ。あなたを拒否し続けるような人と一緒になって欲しくは無い。あなたを女性として大事にしてくれる人といてほしい。
あなたには幸せになってほしい。苦しみの向こうに幸せがあるなら、苦しみ抜いてほしい。でも、犠牲にはならないでほしい。それが仮に神のためであっても(というか、ただあなたの犠牲を望む神なんて、私は信じない。神があなたを苦しめるなら、あなたのためを思って苦しませてると信じてる。)あなたにはあなたの為に生きて欲しい。(あなたが罪もない他者を傷つけないで生きることも、あなたの為だと信じてる。)そして、私のあなたへの愛を常に感じていてほしい。私の愛は絶対だから。ぶれない愛だから。辛い時は、私の愛を思い出して頼ってほしい。私はあなたの為に傷ついて、あなたの為に喜び、あなたの為に戦うし、あなたの為なら負けもする。
 
表面的な「許そう、愛そう」は、現実にある痛みからの逃避ともなります。ところが、魂がレベルアップするには、苦しみが不可欠です。現実よりもファンタジーに生きて痛みから逃げていると、魂の修行にもなりません。成長は痛みを伴うようにできているからです。「許せない」から苦しむし、「愛しきれない」から迷いもあります。苦しむ為に苦しめと言っているのではありませんが、言いたいのは、「人生の課題を前に苦しみもがいているあなたは決して間違ってなんかいない」ということです。自身への愛があろうと無かろうと、現実の提示する問題は苦しいでしょう。でも、愛と共にある苦しみと、自己を愛さないゆえの苦しみは違います。前者は成長できますが、後者は気づきを得るまで、成長が止まってしまいます。
あなたは自分には絶対に嘘をついていないと言い切れますか?あなたが本当は「嫌」と感じていることを、「これでいいはずなんだから、幸せと感じなさい」と感情そのものを否定してくる人を信頼できますか?
 
ツインレイ・プログラムには、「似通った道筋」があるのは確かです。でも、お決まりのプログラムに沿うことがそのものがあなたの人生ではありません。あなたの人生は、あなた自身が経験する現実的、そして内面的事実の両方です。
ツインレイがスピリチュアル的に覚醒しやすく、様々な不思議体験をするのも事実です。でも、スピリチュアルのみが人生ではありません。そもそも、人間として自然な生き方とは、現実とスピリチュアルのバランスをとることです。どちらに傾きすぎても何らかの不具合が出ます。スピリチュアルに固執したり、飲み込まれたり、そもそも「スピリチュアルだから現実より上格。スピリチュアルなメッセージは無条件に正しい」という誤った認識で生きると危険です。現実は現実として、また確固たるものですから。
 
ツインレイとの関係に、「正解」なんて無いと思います。(でもやっぱり私は一人の人として、「周りの人傷つけ過ぎちゃ普通に良くないよね…」と思いますが。)相手を「こう見ないといけない」というルールも無いです。自分が「どうすべき」という教科書も無いです。(そんなものに頼ってたら、「あなたの人生」が生きられませんよね…)
結局は自分の人生だから、と知ってはいながらも、ツインプログラムの「ご褒美」を信じたいがあまりに、様々なツインさんのブログを真に受けすぎて、それぞれ矛盾した「あなた間違ってるよ」に混乱している方、結構多いのでは無いでしょうか。いらぬ心配かも知れませんが… 
プログラム全体におおまかな流れがあるのは別にしても、一人一人のツインさんの人生は、当然ながらあなたとは異なるものです。誰かが彼女の人生を通して得た「正解」が、あなたにも当てはまるとは限りません。一人ひとり、何に「気づく」べきかという課題も、ツインでもツインで無くても違います。
あなたにとっての本当の正解は、「あなたの神」が知っています。
 
 
Pink Pig でした。
 

ツインレイと自己愛と自虐

こんにちは、Pink Pig です。

 
ツインレイプログラムでは、自己愛の成長が求められると、以前も書きましたね。
今回はその典型のような経験を最近したので、ご紹介します。
 
何週間か前、私は怪我をしました。腫れて痛かったのですが、出血しているわけでもなく、その他の日々のことで心身共に非常に疲れていたので、自分に構う余裕も無く、冷やしもせずにほっておいてしまいました。主人に報告し、病院に行くのが必要か聞かれたのですが、とりあえず様子を見ると返事しました。
ところが日が経つにつれ、あれ、治らないなぁ、と… 怪我をした体の一部が、変形したままなのです。痛みも少しあります。不安になってきた私は、主人に状況でし近状を報告し始めました。すると異様なことに、主人がなんとなく、私の怪我に注目するのを回避したのです。私は私で、「別にこんな箇所、変形したまま残っても目立たないしなぁ。いっかなぁ、このままでも。」と、自分を超ぞんざいに扱っていました。すると主人も、傷について大したこと無い、医者もどうせ何もできないから行っても無駄と、適当な事を言い出したのです。
 
ある日、ふと私は気づきました。私の父親なら、何て言う?女の子なんだから、体が変形したままではよくない。結果はともかく、とりあえず医者に見てもらいなさいと言うでしょう。疲れていたとは言え、私は自分がどれだけ自分を軽んじていたかを間にあたりにしました。そして、それを主人に当たり散らしました。「なんで私が怪我してるのに興味ない、っていうか、その話題避けようとするの?!」「普通医者に行かせない?医者が何もできないって、その意味わからない理屈何?!」
主人はすぐ医者を予約してくれ、結果、私の骨が折れていたことが分かりました。(気づかなかった私って、一体…笑)幸い大したこと無く、テーピングで日にち薬です。
 
主人が言うには、なぜ私の怪我の事実を避けたかったのか、自分でも分からないそうです。何故か、私の骨が折れていないと決めてしまっていたとも。私が苦しむと、自分が罪悪感を感じてしまう主人なので、私が怪我をした事実と向き合えなかったのかも知れません。私が骨折していたと知って、ショックで後で目に涙を浮かべていました。現実的な説明はさておいて、これが、ツインレイから安心や満足をもらえにくい所以です。
愛してはいるんです。主人にとって、私が人生で一番大切な存在だとも、何度も言われています。でも、傷スルーするか?笑
スピリチュアル的理由は、私自身が、私の傷をスルーしようとしていたからです。私の自己愛が欠落していたから、それが私自身に跳ね返ってきました。主人に対する私の怒りは、私を軽んじた、自分自身に対する怒りです。
 
難しいですね、ツインレイは。私達はつい、大人をあてにする子どものように、自分が無理をしてしまっていたら、周囲の人が気遣ってくれるだろうと甘えてしまうところがあると思います。特に日本は、自己責任より集団責任の国なので、逆に周囲が「あなた無理するまで頑張ってるね」と認めてくれるほどじゃないと頑張ってないみたいに思われたり(っていうかそもそも「頑張って」ないと立派な人じゃないみたいに思われたり)、「定時に帰りま〜す♪」だと自分甘やかしすぎみたいに見られたり… 結果、「頑張りすぎて自己キャパオーバーし、周囲に支えてもらわなければいけなくなる」という、共依存的な関係をつくりやすいように思います。
 
「頑張って」なくたっていいんです。自分削ってまでして「頑張って」いないといけない、愛されないというのは、自分自身の依存です。何が依存かって、どこかで、人に「頑張って」いるのを認められたい、人に感謝されたいからです。依存が何でもかんでも悪いという訳でもありませんが。
でも、あなたが「頑張って」いないと何か不満な人は、また彼/彼女自身、「頑張らなくちゃ」の呪縛に囚われている人だと思います。勿論、成長のための努力は、本人が幸せになる為にも人生不可欠です。自分が楽しめる努力なら尚更良いでしょう。でも努力するのと、無理をするのは違います。
本当にあなたを愛している人は、あなたに無理なんかして欲しくありません。あなたが自分を愛し、生き生きと日々を過ごしているのが、ツインレイ男性の喜びです。よく頑張り屋のツインレイ女性は、「彼と一緒になるために自立しなきゃ!」「彼に愛される為に無償の愛を与えなきゃ!」と無理をしているようですが、本末転倒だと思います。
 
「自分を愛せる人」が、結果的に好きなことをしながら、精神的、経済的に自立して過ごしている「可能性が高い」というだけのことじゃないかなと思います。(特に経済的自立については、その限りではありません。自分の居場所や役割をしっかり持っていれば、経済的自立は関係無いだろうと、私は思います。)「自分を愛せる人」が、「無償の愛」に近い、おおらかな感情で他者を愛せるのだと思います。(そもそもある種の精神状態を除いて、現実的に「無償の愛」なんてものは無いという私の見解はさておいて。)つまり、自分自身に満足できず、自分に自身が無く、誰かを手に入れたいあまりにどうこうしようとすると、自己愛の欠如が悪化してしまうのではないでしょうか。
 
・自分を愛せるツイン女性 = 自立していたり、依存が少ない可能性が多い。= 自己愛が不可欠なツインプログラムがスムーズにいきやすい。
 
という流れが、その結果だけを見て、
 
・ツイン女性はこれこれ具体的なことをクリアしないと統合できない!
 
といった逆流情報に翻弄されてしまう人を増やしていないでしょうか。ツインレイに限らず、幸せなパートナーシップの「条件」があるとすれば、「健康な自己愛」です。ライフスタイルがどうこうは関係ない、っていうか二の次三の次です。
 
私は、自分では割と(悪い意味で無く)自己愛の強い方と思っていましたが、アダルトチルドレンでもありましたので、どこに幼少の時親から無言で受け取った「私なんてどうでもいいや」的マインドが潜んでいるか知れたものじゃありません。特に私自身が親となると、リアルに優先順位が子どもになるので、今回の傷の件のように、「自分なんて構ってられない」的部分が露出してショックです。
親の、特に母親の幸せは、ダイレクトに子どもの幸せに影響します。我が子に幸せになってもらう為にも、私は幸せにならなくてはなぁと痛感します。(私の母親は傍から見てもとても幸せとは言えない結婚生活でした。そして自分の自己愛の欠如からくる不幸を、子どものせいにして罪悪感を植え付けようとする、結構ありきたりながらも困った人でした。)
 
ツインレイの相手は、あなたがどれほど自分を愛しているか、愛していないか、鏡のように見せてくれます。それは、女性から男性へも同じことです。主人は自己愛性パーソナリティ障害の親に育てられ、隠れ自己嫌悪が激しいので、私の主人へのダメ出しはそれは酷いです(笑 主人に「あなたダメダメのダメだらけなのよ!」的なことを言って、我ながら酷い嫁だなぁと思いますが、私の主人への怒りは、そのまま主人の自身への怒りの露出でもあります。正直私の主人は、私に怒られて(自己と対峙することを余儀なくされて)成長したなぁと思います。
なので、巷に多い「男性の自尊心をくすぐって、愛され女子になろう♪ 女はどんなときも笑顔でほがらかに♪」みたいなあざとい女を推奨する文句に惑わされないでください。特にツインレイの場合上手くいきません。あなたが自分に嘘をついて、傷つくのはあなたの半身である彼です。怒ったら文句を言ってください。悲しかったら泣いてください。彼に正直になることは、同時に自分に正直になることです。自分に嫌なところがあってもいいんです。あるのがあたりまえです。大事なのは、嫌なところだからと言って避けずに、存在自体を否定せずに、ちゃんと直視できるかという点だと思います。
 
今回は長くなりました。
 
 
Pink Pig でした。