ツインレイ女性とシャーマニズム

こんにちは、Pink Pig です。
 
今回はツインレイ女性とそのスピリチュアル・パワーについて、自身を一例に語ろうと思います。
スピリチュアルな力というものは、自分がありますと言ったって、はいそうですかと認めてもらえるものではありませんよね。それでお金をもらっているので無ければ、認めてもらう必要も特にありませんが。ただ私自身が、ツインレイ・プログラムが始まって以降、「私何か能力あるらしいよー」とゆるく気づいていったので、ツインレイ女性がスピリチュアル面で男性レイを引っ張っていくケースが多いと言うのは、あながち嘘じゃないだろうと感じています。
 
私の四柱推命の日柱は、「異常干支」と呼ばれるものの一つです。いきなり人捕まえて「異常」って失礼だと思いますが(笑、まぁ自分人とは違うなとは感じていました。スピリチュアルな能力を祖先から受け継いでいるそうですが、霊が見えるとかいうのとは違います。見えるのは、良くも悪くも、人の心(と思考)です。相手の考えていることがサイキック・パワーですらすら読めるのとは違います。極めて現実的な方法、つまり直感力が特定の方向に鋭い脳の造りなので、相手の声のトーンや表情、行動や思考パターン、言っている内容と相手が本質的に求めているもの、避けているものの矛盾等を総合して、人の静かな愛情の表現、また裏の顔や計算、欺瞞等が「読めてしまう」「傾向にある」ということです。あくまで傾向です。スーパー・パワーではありませんのであしからず。ちょっと人よりそういう感性が強いというだけです。(私とは逆に、主人は人の心やその裏が読めなさすぎる人です。私達は本当に正反対の長所を持って生まれてきています。)
 
スピリチュアルな能力とは、「何か現実からかけ離れた」ものとは限りません。実際、現実もスピリチュアルも辻褄が合うように造られているので、まるで魔法のように思えるできごとは、おそらく私達の現実の理解能力が追いついていないからだろうなと私は思っています。例えば「あの世」も含めて、あればそれは現実です。
 
人は自分の名前を自分で決めて生まれてくると言われますが、私の名前には「神に誓い神意を悟る」と言う意味があります。大層に聞こえますが、ごくごくフツーの名前です。あえて言うなら漢字が微妙に少数派。フツーすぎて、小さい頃は「ダサいわ−」と嫌っていました(笑)お寺でつけてもらったそうです。おそらく私の魂は、自分がツインレイ女性として生きることを設定し、その役目のヒントを名前にしたんだろうなと想像します。その割にはお役目に対し文句タラタラですが…神に誓ったんじゃなかったのか、私。
 
インターネット上でどういった情報に巡り合うかにも、スピリチュアルな力が働いているというのは、既に多くの人が感じていることですね。私の場合、誕生日からは「情報収集能力に優れている」性格らしいですが、実際のところは情報通でも何でも無く、ただ「必要な時に必要としている情報に巡り会いやすい」ラッキー度が、特にツイン・プログラム勃発以降急上昇しているのを感じます。シナリオに「いい順番で」自然に情報が明け渡されるようなので、私自身は必死に情報を探し求めること無く、ふと気になったことやキーワードを検索した時に、次のステージへのきっかけとなる情報が来るといった感じです。
 
私よりはるかにIQの高い主人が、私の情報収集能力に驚くというのですから、実際そういった長所があるのでしょう。でも私がインターネットや周囲のヒントから得る情報は、大概家族の成長の助けになるものです。それらと自身の成長や、ツインプログラムがリンクしている感じでもあります。ですので、私は自分の「能力」は、神から与えられたもの、というか、周囲の人を助けるという目的を神が私を通して行っているだけで、自分はそのマリオネットか、伝導体のようなものだと感じています。
チャネラーもそうですが、神と繋がる伝導体の役目を持つ人がシャーマンですよね。でもその人自身がすごい、というよりは、人を使える神がすごい、と私は感じます。私は神に使ってもらえる自分も割と好きですし、(何度も言いますが、不満タラタラでもありますが…)無理に謙虚ぶるつもりはありません。が、実際に神の意思を感じることが増えると、正直に「うわぁ、自分使われてるな−」感満載です(笑 特別なものでは無く、それに気づかずとも私達一人一人が皆神に使われているように、ごくごく自然なことなんだろうと思います。
(ちなみに、ここでは神とハイヤー・セルフ、アセンデッド・マスター等を区別せず神と読んでいます。あしからず。私には具体的に何が誰の影響か等は解りません。)
 
神に使われた人と言えば、キリストも、例えば特に人類の為に死にたくて死んだんじゃ無いですよね、多分。(そうだという説も沢山あり、個々の解釈をどうこう言いませんが。私はテキストからそう理解するのが自然だと感じます。)処刑される前も、それを知っていながら、「できればやめてください。でもあなたの意思なら遂行してください。」的な祈りを捧げて苦しんでいたと、聖書には書かれていました。死の間際の「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」も有名ですね。
キリスト教に楯突くつもりはありませんが、私個人としては、キリスト自身は神では無く、非常にスピリチュアル的に目覚めていた人間だったのではと感じています。神が自分を疑っても仕方ありませんし。人類に与えた影響を考えると、偉大な人だったのは私ごときが言うまでもありませんが、あくまで私個人としては、素直に「可哀想…」と思ってしまいます。復活されたとか、アセンデッド・マスターになったとか、後の話は色々ありますが。それにしたって気の毒です。仮に本人の意思で、神の意思に従いメシアとして苦しんだとしても、苦しみは苦しみです。まさか自分が処刑される運命だとは、最後まで受け入れるのが辛かった様子が伺えます。
 
ここから何が言いたかったのかと言うと、ツインレイもライト・ワーカーということになっていますが、「人類の幸せが私の幸せ」ぐらいに悟っていないと、神に指名される存在であっても、それがイコールで個人の幸せとはなりませんよね。(私なんか悟りとはほど遠く、「私エゴの欲求が満たせる人生生きてみたいんですけど?!」と常に求めてます。そんなんでも割と幸せですが。)神の愛はそれほどに理解が難解なものなんだと思います。それは自己愛と自己矛盾も含めてそうですね。神に愛されるといいことも沢山ありますが、自分が無意識に自己犠牲を望んでいたら?何だか空恐ろしい気もします(笑
 
Pink Pig でした。

ツインレイとジャッジメントと鏡の法則

 

こんにちは、Pink Pig です。
 
前回のジャッジメントについての続きですが、今回は「ツインだったらどうなるか」的側面から書いていきたいと思います。(あくまでも「うちのツイン」の例です。こうならないとツインじゃないということではありません。)
 
よく言われる「鏡の法則」ですが、これはツインに限らず、自分が無意識に鏡として選んでいる(自己を投影している)他者なら誰を対象にしても起こります。相手の好きなところは、自分自身の好きなところ。相手の嫌いなところは、自分の嫌いなところ。
では、自分の嫌いな、許容できない自分を許容してしまえば、相手の嫌なところも気にならなくなる…?まぁ、ロジックとしてはそうではあるんですが…じゃあ「なんでもOK」自分に出しちゃって、本当にOKって感じれますか?
 
例えばサディズムは、多かれ少なかれ人間は皆持って生まれるものです。私は動物の肉を食べるし、論理的には自己正当化できないと解っていても、弱い動物や子どもをむやみにいじめて、己の劣等感をサディズムではらそうとする人に強い怒りを感じます。(そんな人と個人的に知り合うことも無いですが、炉端で見かけたりすると普通に不快でしたし、動物や子どもを守ってあげたくなります。)
先程理論的には正当化できないと言いましたが、このような反応をするのが当然私だけで無いように、人間心理として、(動物食べといて)動物虐待に憤りを感じるのはごく自然なことです。「子ども(弱者)を守る」という本能は、社会生活を経験してきた上で、多くの人間の遺伝子レベルに刻まれているからです。そういった本能が、高度に社会的動物である人間には有益だったということですね。
 
というわけで、「こんな状況は良くない」と思った時に、「状況を変えたい」、つまり怒りの感情が出ますね。
これを鏡の法則に照らし合わせてみるとどうでしょうか。サディズムは私の中にもあるから、相手の感じていることがある程度読めるし、それに対して怒りもするのですね。逆に全く持って理解不能な、一度たりとも経験したことない感情なら、困惑こそすれ、怒りには繋がりません。ではこの状況、「私の中のサディズムを認めます、許します。だからサディスティックな人にも関与せずスルーします。」と言って、何の感情も持たずに見れますか?むしろ、それできたら人間としてちょっと危うくないですか?
もしくは、「怒りは悲しみから来てます。あぁ悲しい。悲しみを受け入れます。」と言って、弱者がいじめられている状況を傍観しますか?その弱者がもしあなた自身だったらどうですか?他人に起きたことには哀れんで、憤れても、自分ごとだとどうでもよくて、いじめられときますか?
 
まず、自分のネガティブな側面を認めたとして、その上で自分をどうジャッジするかは、自分自身の問題です。「感情は認めても、それを行動に表すべきでは無い」状況はいくらでもあります。(何でも自分の感じるがまま行動すれば、自分自身が困った状況に陥るのは言うまでもありません。)
ツインに戻りますが、ツインはこういった「自分の見たくない自分」を他者よりも激しく自身にぶつけてくるところがあります。誰でも「自分のダークサイド」を保持している他者に自然に惹かれるというのはよくあることですが、ツイン相手は、こっちが疲れるくらい、それを執拗に見せてきます。
 
先程のサディズムですが、夫は過去から来るトラウマ等から、無意識に私にサディスティックな言動をすることが多くありました。じゃあ私が自分の中のサディズムを認めると、それが治るのかと言うと… 私は既に自分の中にあるサディズムにも気づいていたし、特にそれをどうこうしようという思いすらありませんでした。(サディズムにしたがって不道徳な行動をするという認識もありませんでした。)
ツインによく推奨される「受け入れる」、「自分の問題と考え相手を変えようとしない」等とは別の方法を、私は取りました。
夫(自分)相手に、「だめなものはだめなんじゃボケ!」と怒ったのです(笑
 
「自分に怒れるということ。」私はこれもとても大事な自己愛の一つだと思います。親が子どもに怒るのもそうです。精神的に不健康な親は、純粋にコントロールすることのみを目的に怒ることが多いですが、子どもを愛している親は、「子どもの為=子どもを愛している自分の為」に怒ります。「危ないことしないで」一つとっても、「あなたが怪我したら私が迷惑被るじゃない」と、「あなたが怪我したら、あなたを愛してる私が悲しい。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。「悪いことしちゃだめ」も、「私が恥かくじゃない」と、「不道徳に生きると結果的にあなたが傷つくのよ。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。
 
コントロールするよりもっと悪いかも知れないのが、「無関心」です。子どもに対して、「あなたをコントロールしようとすることを手放します。怒りも感じません。」といって、それは本当に子どもの為でしょうか。実際のところ、子どもは親の感情無しには学びません。「こうこうこうだから、やめようねー」と言い聞かせても、親が「本気で」自分に怒ってくれないと、「真剣に」対応されていると感じれずに、学べません。私の主人は、前妻との子に「無関心」だった為、子どもの成長がかなり遅れ、子ども自身苦しんでいました。当初は私に色々と嫌がらせをしながらも、その子は私に「私を直して(”Fix me!")」と言ってきました。自分が間違ったことをしていたのは、どこかで分かってはいたのです。それで自分の首をしめていたことも。誰かに「真剣に」向き合って、怒って欲しかったのです。ごまかさないで、ちゃんと直視して、意見して欲しかったのです。感情をぶつけるのでは無く、その子と向き合って「真摯に」怒ると、私の言葉を素直に受け入れ、みるみる変わっていきました。同時に神経症も良くなっていきました。
 
あなたは常にあなた自身が育てています。親であるあなたが、子であるあなたに「何でもOK」、またツインであるお相手に「あなたも私だからなんでもOK」と言って、それを「真実の愛」と呼べるでしょうか。もしかして、「自分が苦しみたくないから育児放棄/相手放棄」に近いものじゃないでしょうか。
「なんでもOK」なのは、感情をありのまま感じ、受け止めるレベルまでです。自己の感情同様、ツインであろうとなかろうと、他者が何にどう感じようと、根本的にコントロールできるものではありません。
しかし、あなたのツインが、あなた自身が自分に「してはダメ」と言っていることをしていたら、それは怒ってあげるべきじゃないかなと私は思います。(逆にあなた自身が「あ、これいいんだ」と納得させられたら別ですが。)「受け入れ」とは「放棄/放置」とは違うからです。相手がネガティブな感情も感じることを受け止めるのが受け入れです。相手があなたのモラルを破っているのを見てみぬふりするのは放置です。関係に「他人度」が増すほど、大人同士では放置しても自己責任なので問題ないことが多いですが、ツインは「もう一人の自分」です。自分のダークサイドを自分が放っといて、勝手に良くはなりませんよね。
 
ツインの表面的な行動をコントロールしようとしても、上手くはいきません。でも、親に愛して欲しい子どもは、親が自分の感情を受け止めてくれた上で、自分の為に怒ってくれていると感じれたときには、自然に変わろうとします。愛のみが人を変えることができると言われるのもこういったことだと思います。
ツインはもう一人の自分であると共に、自分の親で、子でもあります。私が「私はこれは嫌い。私はこれはしてはいけないと思う。」と怒りを持って伝えたことは、ツインに響きます(そして、もともとツインも実は私と同じ価値観を持っています。根本的に、私達はお互いに同意しているのです。)「変えられた」と言うよりは、最終的にいつも「気づかせてくれてありがとう」という反応になります。
 
ツインに限らずですが、愛ある否定とは、「あなたを愛しているけど、あなたのこうゆうところは好きになれない」だと思います。「あなたのこうゆうところが無くならないとあなたを愛せない」との違いです。前者は人に影響しますが、後者は人を萎縮させ、神経症にさせます。
自分にも、また自分の半身のようなツインにも、「NOはNOと言う」のは大事だと思います。執着もエゴも、持っている以上苦しみもあるものですが、苦しいからって何でも手放してしまっては(または手放したつもりになっていては)、魂は学びません。あなたが人間として生まれたのは、人間として感じ、苦しみも喜びも学ぶべきだったから。そんな泥臭い生き方が、人間である自分を愛するということではないかなと思います。
 
 
Pink Pig でした。

ツインレイとジャッジメント

こんにちは、Pink Pig です。

 
「はじめに」の追記にも書きましたが、私と主人のプログラムの進み方に、ツインレイに一般に言われていることと特に異なる点があるので、ご参考に記しておきたいと思います。
ツインレイは「無償の愛」を周囲にふりまくようになると言われます。それ自体は、正直私には何のことを言っているのかよく解りません。私は特に今に限らず、昔から人を助けたり、喜ばせたりするのが割と好きですが、際立って人より他者に貢献しているとも思えません。例えばボランティア活動をしたら、無償の愛を与えていることになるのか?「見返りを求めない善意」という意味では、通りすがりの人に笑顔で挨拶するのも、ある意味無償の愛なのでは??「無償の愛」が具体的にどういった意味合いで使われているのか解らないので、それはとりあえず置いておきます。
この「無償の愛」とよく混同されているようで、余計に判りにくいのが、「すべてを受け入れる」、「愛の存在になる」等など… 一見物事や人に対する「裁きの放棄」を促されているようにも聞こえるのですが…
 
私と主人のプログラムは、ぶっちゃけ「他者を裁くことを学ぶ」連続でした。この「裁く」とは、自身と宇宙の裁きを混同した傲慢な意味合いで無く、「悪いものは(自他とも含め)悪いと認める」、「嫌なものにはNOと言う」等、自分の意見や感情を尊重する先に見えるジャッジメントです。
主人は一家のスケープ・ゴート(生贄)として育てられ、何でも「とにかく受け入れる」ことを強要されて育ちました。その結果、「愛」の建前と共に、自分に頼りながらも毒を注いでくるような他者を「無償の愛(のふり)」でもって受け入れようとし、精神的にズタボロになりました。
でも、その「無償の愛」は実は大嘘だったんです。実は近しい人達が大嫌いで、結果主人から彼らにも多大なダメージを与えていました。主人の精神回復は、そんな自己欺瞞から徐々に目覚め、聖人を気取っていた自分を取り払い、「ジャッジする自己」を認識し、容認していくところから始まりました。
 
人は万人の神ではありませんから、一個人が「神の裁き」を与えることはできません。(「その人の神の裁き」は与えられますが。)「神/宇宙の裁き」は、私達皆、嫌でも受けるものです。では、私達個々人の裁きとは何でしょうか。
不当に傷つけられたら、自分の為に立ち上がるのが自然です。大切な人を傷つけられたら、その人を守るために戦いたいと思うのが自然です。人的道徳に反した行動を目にしたら、社会を守るために罰したいと思うのが自然です。裁かないことが愛のためであれば、裁くこともまた愛の為です。
 
また、「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という記述も割とよくありますが、大きな視点で見れば、そんなものはっきり言って「言いよう」です。ジャッジするもしないも(しないように促そうとするのも)、すべてエゴだからです。私達は皆神に「そうゆうふうになるよう」造られています。
例えば、あなたが誰かにジャッジされた時、それがあなたの苦しみになったとします。個人として苦しみは避けたいでしょうし、大概避けようとするよう造られているのがあなたですが、その苦しみは神からあなたの成長の為に与えられたとも言えます。
もしくは、人にジャッジされたことにより、あなた自身が自分に不安や疑問を感じたとします(多くの場合、その不安はジャッジしてきた他者への攻撃/苦手意識となって表れます)。それでいいんです。胸を張ってジャッジメントを拒否できない限り、あなた自身の内面に迷いがあり、それに向き合い消化仕切るチャンスを与えられています。(最終的にジャッジメントと同意するか否定するかが根本の問題ではありません。)
人は自身の自身に対するジャッジメントが怖くなければ、(現実的に環境に影響される場合を除いて)他者からどう思われようが、言われようが気にならないものです。むしろ、「そんな風に考える人もいるんだ」と面白く思えるでしょう。なかなかそこまで達観するのは難しいですが、別に達観してなくていいんです。自己欺瞞に陥ってみてこそ学べる自己肯定ですから。
 
「ジャッジしてくる人はエゴで裁いてくるからよくない」という人は、その人のエゴからそう言っています。そしてそれも、神にそう言うよう造られてのことなので、その人の言葉を必要な時に聞いた人は救われます。そういった意味で、その人もそれでいいんです。
ただ混同すると危険だと思うのは、「神の意思」が「個人の意思」に相反することもままあるのは自然なことで、個人が神になろうとしても別に「正しいことをしている」わけでは無いということです。
それをミヒャエル・エンデの「果てしない物語」はよく表していると思います。
 
ネバー・エンディング・ストーリーとして映画化もされましたが、是非原本を読むことをオススメします。児童書と侮るなかれ、とてもよく考えられたお話です。
物語のステージは、主人公の少年バスチャンの住む人間世界と、ヒーローであるアトレーユの住む本の中の世界ファンタスティカの大きく分けて2つなのですが、ここでは具現化した「神」のいるファンタスティカに関して話します。
ファンタスティカは人間の空想や、求める意思によって造られますが、そこに「幼心の君」という神(バスチャンには、少女の形をとっています)がいます。ファンタスティカが「虚無」に侵されてピンチになった時、「神」は自ら人間の子を呼び込んでその世界を救おうと動きます。ここで面白いのが、幼心の君は、ファンタスティカの住人の誰が良くて、誰が悪くて、誰が重要で、誰がそうでなくて、といったジャッジをしないということです。彼女にとって、ファンタスティカのすべての住人には等しく価値があり、尊いものです。それがその物語の中の「宇宙」であり、神の視点ですね。
 
だ け ど、内心何を思うかは別にしても、もしファンタスティカの住人そのものが、彼女と同じメンタリティで行動してしまうとどうなるでしょうか。例えば、ヒーローであるアトレーユは、一族のしきたりとして雄牛(だったと思う…)を殺そうとしますが、もし彼が「お前も私も神の目には同じ価値があるから、お前を殺さないでおこう」とか。それはまだしも、もしくは物語内の「悪役」に滅ぼされそうになっている時に、「おまえを裁く資格は私には無い。だから潔く殺されよう。」とか…
そうするとどうなってしまうかと言うと、アトレーユは「ヒーローとしての使命を全うできない」、つまりヒーローキャラとして存在できなくなります。お話が「お話が進むべき」方向に進まないですね。それは神の意図に反することです。(実際のところ、反しようったて反せないのも神の意図ですが。)ヒーローは多かれ少なかれ、「お前が間違ってる!俺が正しい!」、もしくは、「俺は俺の道を行く!邪魔する者は排除する/邪魔はさせない!」という信念を持って行動しています。(個人が利益を追求する場合も、宇宙愛を説く場合でも、このメンタリティは基本的には同じです。)たとえそれが「神のみ心に沿って」の行動でも。
 
少し言いたいことが伝わってきたでしょうか…
幼馴染の君が善も悪もすべてを大切にし、ジャッジしないのは、つまり「ヒーローはヒーローとして他者をジャッジして、戦って、苦しんで/喜んで、ヒーローとして機能してくれたらそれでいい」、「悪役は悪役として他者をジャッジして、退治されて/企てに失敗して、苦しんで/喜んで、悪役として機能してくれたらそれでいい」ということです。(ヒーローや悪役を定義づけるのは読み手の方ですが。)なぜなら、「それでこそ物語が語られるから」。私達は皆、個々人の人生のメイン・キャラであると同時に、宇宙が書いた壮大な物語を紡いでいるキャラクターの一人に過ぎません。
 
つまりのところ、「ジャッジしない」と個人的に決めたから実際に神に近づけるのでは無い、ということです。あなたがジャッジしないことで救われる人もいれば、逆に救われない人もいます。自分で自分を裁きたいのに裁ききれない人は、実は「人に怒られたい/正されたい」欲求も持っており、そういう人は「怒れない親」が多い現代に増えているようです。わざわざ他者に正されようとお金を払う人達もいます。自己欺瞞に苦しむ人は、逆にジャッジされて救われます。自己欺瞞に向き合いたく無いけど、無意識に向き合おうと、他者の自己に対するジャッジを促す人もいます。つまり、ジャッジしない人に良い意味と悪い意味の両方があるのと同じように、ジャッジする人にも良い意味と悪い意味の両方があります。
 
あなたが他者にジャッジされたくないから、他者をジャッジしませんと公言して、ジャッジしてくる人を非難するのは欺瞞ではないかと、私は思います。(だって非難するあなたもジャッジしてるから…)ジャッジメントは人間である以上、理不尽なものもそうでないものも、私達は受けます。神が受けさせます。何を理不尽と考えるかは個人によりけりですが、「個人の意見」は「神の意思」とは無関係です。(裏を返せば、万人の「個人の意見」が、まるまる全部「神の意思」です。)「神に愛されて」生きようというのであれば、まずあなたが自己を裏切ること無く、自身から隠れること無く、感情と思考の不一致を受け入れ、「真に自分の信念に忠実に」生きることではないでしょうか。
 
私達のツインレイ・プログラムは、「ジャッジしろ(そしてジャッジする自分をネガティブにジャッジするな)」と言っています。そうでないプログラムの方々が大半だというのは全く結構ですが、同じようなマイノリティで、疑問を感じている人に届けばと思って書きました。
 
Pink Pig でした。
 
 
 
 
 

ツインレイ・プログラムと自分の人生

こんにちは、Pink Pigです。

 

私は自分のことを一応「ツインレイ」と認識していますが、その理由は単純に、私の経験してきたことや、していることが、「他に説明がつかない」からです。(ツイン・ソウル、ツイン・フレーム等についても読みましたが、当てはまらない箇所の方がツインレイよりかなり多いです。)

「ツインレイはこういうもの(それ以外は違う)」といった記述は沢山読みましたが、それら自体が互いに矛盾しているし、私は特に、そこから「ツイン相談」等のビジネスに繋がっているブログに懐疑的です。皆がそうとは言いませんが、ビジネスをしている以上、その人は自他共に「真実を知っている(べき)」というプレッシャーに囚われるからです。逆に、真実にピュアに近付こうとするならば、「無知の知」から始める方が近道だと思います。

 

スピリチュアルな事象について「これが真実です(それ以外は違う)」と言う人は、何を根拠にそう言っているのでしょうか?自分のケースがそうだったから?マジョリティがそうだったから?はたまた、どっかの誰かがそう言ってた/書いてたから?あなた自身が神に聞いたから?(それ、あなたの神でも、他者の神とは限りませんが…)あなたが正しいと、あなたが感じたいから?

上記すべて、「これが真実です(それ以外は違う)」と謳うには何も根拠がありません。「おそらくそうである可能性(が高い)」ぐらいのものです。

何を信じるか信じないかは自己責任ですが、あまりにも具体的根拠の無いことを、救いを求める他者に「絶対的真実です」と売るのは罪深いことではないでしょうか。スピリチュアルは、誰も立証も反証もできない分、言いたい放題なところはあります。

 

私達は無知です。お互い助け合って、または触発しあって、何とか知識を得ようとしますが、ツイン・ブームそのものが歴史が浅く、その上色々道徳的に間違った方向にも使われています。カウンセラーが自身も精神的に問題を抱えている場合が多い(のでカウンセラーを目指した)ように、ツインレイに聞けばツインレイの事実や、その真実が解るといったものではありません。はっきり言って精神問題はツインレイにつきものです。明らかに精神を病んでる人に、自分の人生のあり方を乞うのもいかがなものかと危惧します。勿論、個人の自由ではありますが。

 

今回何が言いたかったかというと、「ツインレイ・プログラム(に関して言われていること)に囚われないで、あなたの人生を生きてください」ということです。プログラムに関して知識を得ることは有益だと思います。(そのソースは曖昧であるということを踏まえた上で。)私はその上であえて、「自分の信じるように」生きました。それがツインはどうするべき、どうなるべきといったことと矛盾しても。そして結果的に、どうやら大まかには結局プログラム通りに進んでいるようなのですが、プログラム云々に囚われなかったのは正解だと感じています。勿論、私の正解があなたの正解とは限りませんが、「精神的、物質的安定及びツインの揺るぎない愛」を求めている方々にとっては一つの正解だと思います。

秘訣は、「精神的、物質的安定及びツインの揺るぎない愛」のゴールに囚われないで、自分の信じるようにすることです。あれ、矛盾してますか(笑

 

もし本当にツインと離婚すべきと思ったら、していたと思います。もし子どもがいなかったら、ツインに沸を切らして他の男性と恋をし、関係を持ったかも知れません。(特に決まった相手がいた訳ではありませんが、当初の私は、男性経験ゼロであることからツインに馬鹿にされていると思っていました。)もしそれらの決断をしていても、それが「間違った」道だったと、私は思わないでしょう。ツインと会って別れたことも、人生のお勉強で、失敗とは思わなかったでしょう。私の人生は、少なくとも今の所ツインレイ・プログラムに沿って進んでいるようですが、ツインレイ・プログラムが私の人生という訳ではないからです。

私の人生は、私が何に翻弄されようとも、あくまで私のものです。籠に閉じ込められた鳥でも、籠の中で精一杯生きます。もし鳥の行動や感情が逐一コントロールされていたら、それはもはや機械で、命では無いでしょう。(私達は神に造られた精密な機械です、という観点は、ここでは置いておきます。)

 

だからと言って、私は「すべてジャッジしないで、すべて受け入れたらハッピー!」といった根本的な人間否定に賛同している訳ではありません。ツインレイ・プログラムや、他のツイン達がどうこうと言ったジャッジメントよりも、一人間として大切なことを基盤にジャッジすることを忘れない方が良いと思うのです。

因みに「全くジャッジしない」というのは、私達の住む二次元では不可能です。「ジャッジしないで」という時点で、その人はジャッジしてます。ジャッジするしないは、あくまでバランスの問題です。「よりジャッジしないほうがよりいい」と言った単純なものでもありません。

 

自由は責任を伴います。どんなに無責任でいたくとも、私達は見えないカルマの掟を生きています。「こんな私/あなたでもオッケー」なわけではありません。「こんな私/あなたでも愛する努力をする」、「本当の意味で愛せる自分になる努力をする」からこそ生は尊いのだと私は思います。

「何でもいっか/気にしないでおこう」と放棄しようとする人ほど、元が何でも良いと感じれないので、その苦しみから逃げようとしているという面が多々あります。そもそも、ジャッジするのが自然な人の脳において、ジャッジすること/されることが苦痛に感じだした場合以外に、ジャッジメントを放棄しようという発想自体生まれません。

ただジャッジすることが良いわけではありません。ただジャッジしないことも良いわけではありません。バランスです。

 

話が逸れますが、私が現時点で少し悩んでいるのはアパシー(無感動)ですが、ツインの優しさや気遣いから治り始めています。(そうです、「精神的に頼れない」ことで有名なツインですが、それは特に最初のうちで、私達の場合はプログラムが進むと共にかなり改善しました。時間はかかりましたが…)

ツイン女性は孤高と言いますが、自らを振り返ると、無意識に孤高を選んでしまっているところもあったんじゃないかと思います。プログラムからも孤独に追い込まれますが、私のツインの好きな口癖は、「冬は夜が最も暗く、星がもっとも輝く時」です。自分の置かれた環境や、内面を含めて、暗闇にいないと見えない光を、ツインレイ達は見つけるように促されているのだと思います。

 

Pink Pig でした。

ツインレイについての忠告

こんにちは、Pink Pigです。
 
ツインレイについてネットであれこれ読んでいると、よく不思議に思うことがあります。
このブログを書き始めたきっかけの一つでもあるのですが、それは、私自身が、「別にツインレイでありたくないツインレイ」としてマイノリティのようだということです。私からすると、自身が「ツインレイ」の称号を受けるのか否かは、「果たして私の体験している不可解な人生がそれによって説明できるのかどうか」という興味につきます。後者は私にとっては重要なことですが、称号自体は正直どうでもいいです。
ツインレイを馬鹿にしているとか、またはツインレイである(らしい)ことを鼻にかけていると勘違いされたくは無いのですが、マイノリティ的な立場として、ついつい口調が批判的もとい挑戦的になることは否めません。(マイノリティってつい防衛的になっちゃいますからね。)
 
ツインレイについてのブログは、多くが自称ツインレイの方々が書かれており、ツインレイの素晴らしさをうたっています。そして、ツインレイ批判をするブログは(大変もっともなご意見の方々が多いのですが)ツインレイでは無いと自覚されている方が多いようです。
ではどうして私のように、「ツインレイだけど、正直ツインレイお勧めできないよー(笑」みたいな方が少ないのでしょうか。そもそもそんなブログ流行らないのかな。一ツインレイとしては、とても自然なスタンスだと思うのですが…
 
ツインレイに(というか、「ツインレイ詐欺」に)批判的な方々はもう十二分に書かれていると思いますが、私もあえてツインレイとして、彼女たちの意見に同意したいと思います。何に同意なのかと言うと、「ツインレイ探し」はおそらく止めたほうが良いということです。「彼はもしかして…」というのも、ツインレイ探しに含まれると思います。
 
一言で言うと、「ツインレイ甘くないよ」です(笑 この「甘くない」というのは、「あなたには対処できない」と言った意味では無く、そのまま「そんないいもんじゃないから…」ってことです。ツインプログラムが精神的にきついのは、皆さん聞いていると思いますが、それは「いつまで白馬の王子様を待ってたらいいの…」といったレベルのきつさではありません。飴とムチの、あれ、飴が無くないですか?!みたいなきつさです(笑 老婆心に、「あんたよしときなさいって」と言いたくなります。私の子どもたちには、できるなら一人でこんな経験させたくないです。
 
ツインレイ・プログラムは、神の愛、もとい自己愛を学ばされます。でもその教え方が超スパルタ(笑 お母さんみたいに「私がこんなにあなたを愛してるから、あなたも自分を愛していいんだよ♡」って教えてくれりゃいいのに、実際は「そんなに自分卑下するなら、一回踏みにじられたらちょっとは自分の価値にも気づくんでね?」みたいな…「そんなに死にたきゃ死んでみろや(そしたら命のありがたみもちょっとは解るだろ)」と大差ないロジックで「教えられる」んです。
自己愛に向き合うまで、愛なんかまともに感じられるもんじゃ無いですよ(笑 ツインは常に愛してくれますが、それが解っていても、自己愛が不十分だと満たされません。
 
大体、ツイン・プログラムって無理やりです。というか、ツインレイとして生まれている時点で人生はなから無理やりプログラムに乗せられてます。ここで言う無理やりとは、勿論個々の意識の範囲であって、「魂の時点で自分でそれを選んだのよ」と言われれば、魂の時の記憶無いんで、そうなんですか?としか言いよう無いですが…
ですので別に私は自己愛と徹底的に向き合う人生を望んだわけでも、望んでいるわけでも無いのですが、「そういうふうになっちゃってる」がここにいる一ツインレイの現実です。えぇ、主人にはそれはもう深く愛されています。えぇ、それが何であれ、何か神秘的な力に(いじめられながらも)がっちりサポートされているのを感じます。それを幸福と取るかは個々人の精神状態によるでしょう。運命にいじめられすぎた私は、現在に至っては無の境地に近づきつつあって、別段強く幸福を感じることはありません。時折「あぁ、自分幸せ者なんだなぁ」と他人事のように思いますが。
 
勿論、すべてのツインさん達が私のようで無いことも皆さんすでにご承知だと思います。ツインレイの甘美さや偉大さといったイメージを追いかけたい人は、そもそも私のような口調のブログを読んでいないでしょうから、こんなツインレイのカミング・アウトが実際誰の役に立つのかは分かりませんが…
素敵な恋愛が目的ならば、まずツインレイはそれに含まれないと思ったほうがいいでしょう。自己愛、もとい神の愛を感じることを極めたければ、別にツインがいなくとも、あなた自身はそこにいます。あなたの意思さえあれば、自己と向き合うことはいつでもできます。(繰り返しますが、ツインレイは強制なんです…自己から逃げようったって逃げさせてくれないんです。)
 
強制的に、契約書にサインした記憶も無いのにツインレイのレールに乗せられた者からしたら、ツインレイのシステムを知り、知識を深めることは死活問題になりえます。それまで通りエゴのロジックにしたがって生きていくのにどうしても限界を感じる時が来ますから。でも、自分がツインレイかどうかも分からないうちからツイン探しをするのは大変危険です。むしろそんなものに気を取られずに、ツインでない、できれば普通に幸せな人生を生きて欲しいです。
 
ツインレイはヒーロー・ヒロインじゃありません。個々のツインのシナリオは、確かに個々をヒーロー・ヒロインのように感じさせる物が多いですが、健全な自己愛を持ってしたら、人間誰しもが皆ヒーロー・ヒロインです。皆自分だけのストーリーを生きています。そのストーリーの中で本当に自身を主役と思えるかどうかは、あなたにかかっています。
ツインレイが自己愛に向き合わされるのは、そもそも私達の自己愛が不完全だからです。不完全であればあるほど、試練もきついものとなるでしょう。全く完全な自己愛なんてものがあるのかは解りませんが、少なくとも、「ツインレイになりたがる」ということは「自己愛不足になりたがる」と同義になってしまうということはご理解いただけるでしょうか。そんなものに時間をさくよりは、まず一人で自己と向き合ってみる方が幸せへの近道では無いでしょうか。
 
個人の幸せにタイトルはいらないはずです。幸せは心で感じるものですから。
 
Pink Pigでした。
 

ツインレイとシナリオ

こんにちは、Pink Pig です。
 
ツインレイ・プログラムが大分進んでくると、個々のプログラムに解き明かされる「シナリオ」があるのが解ってきます。
現実の観点とは別に、スピリチュアルなある種のストーリー・テリングのような、「こういう裏物語だったのね」的な…
この「シナリオ」は、どうやらツイン一組ごとに違うようです。似通ったシナリオを持つツイン達も多いですが、ツイン個々人の生きてきた人生や、学ぶべきことが反映されているので、他者のシナリオがあなたのシナリオに当てはまるとは限りません。
 
例えば私と主人の場合、どうやら「裏設定」は、あくまでも「魂の上で」、主人は私の「本当の母であり、兄である」ことが、それぞれの人生経験や、それが当初お互いを見るのにどう影響したか、お互いが何を主張しようとしていたか、また四柱推命のヒント等を通して解ってきました。また、私は主人の「本当の母であり、妻であり、子である」ようです。この「本当の」シリーズは、現時点までで出てきたものの羅列なので、今後まだまだ続きがあるかも知れません。
 
自己愛性パーソナリティ障害(主人の両親と前妻が持っています)や、ADHD(主人の前妻と、主人との子を含める前妻の子どもたちが持っているようです)といった障害についても、どうやら私が解き明かす使命だったようです。(私の両親の親、私の祖父母が、自己愛性パーソナリティ障害を持っていることが解りました。両親はつゆぞ知らなかったようです。また主人も、今は私との子として育てている前妻との子どもが、ごく軽度のADHDに影響を受けていることに気づきませんでした。)主人はその人生から、障害に対して毛嫌いというか、排除的な思考を持っていたので、今後それらを自分の人生として(肯定や正当化では無く)素直に受け入れる学びを促されるかも知れません。
 
私は主人のプロポーズを受けると決意するまで、近しい男友達もおらず、男性とは手も握ったことが無かったので、過去の恋愛関係がどうのというシナリオはあまり出てこないようです。また、自分が自分に対して社会的に理不尽なことを許容させようとすることも少なかったからか、相手から理不尽なことの許容を求められることもとりわけてないです。(でも精神的な面ではありました。私が自分を「我慢」させていたことを、相手が無意識に我慢することを強いてくるので、それに対してブチ切れた時に「自分に対する自分への呪縛」が薄れ、相手も速やかに対応が変わります。)
 
他のツインさんにも多く見られる、「男性性、女性性の再認識」はかなりあります。シナリオからすると、主人は幼少期から自身の男性性を抑圧される環境で育ち、私は現代のフェミニズムや男女平等の影響を特に海外で受けました。しかし、私達の関係の間では、陰陽の通り、男性は与え、働きかける、女性は受け取って、受け入れるという関係を構築しないとうまく行かないのだということを学ばされました。また子育てを通し、夫が妻に対して陽であるから、妻は子どもに対して陽であることができるというサイクルにも合点がいきました。(逆に夫が妻に対して陰でいると、エネルギーが枯渇した妻は子どもに対して陽であることの持続が難しくなります。)
 
一つ私が不思議に思っているのは、どうやら私達のシナリオに、「キリスト」のテーマが潜んでいることです。
私は無宗教で、主人は幼少からキリスト教に対する反発が半端ないです(笑 私もキリスト教に限って特に愛着はありませんし、回教する気もありませんが、私達のシナリオにちらほらとキリストの影が見え隠れするのが気になっています。
例えば、私達の第一子は女の子でしたが、生まれて間もない彼女が私の上に横たわっているのを主人が写真に収めると、彼女の手がキリスト教で使われるハンドサインだったり。また現在第二子を妊娠中なのですが、まだ性別の分からないころ、お店で買ったカードに謝ってキリスト誕生のカードが入っていたり。主人が第二子の妊娠を祝う際に、何故か突然「これは本当のクリスマス・パーティ」と言い出したり。(本人何でそんなことを言い出したかよく分からないそうです)笑 その他、小さなこと色々と、キリストがヒントとして出てきていました。
第二子は男の子なのですが、よもやキリストのように自らを犠牲にする運命を歩くことになりはしないかと、今から気が気ではありません(笑 私はキリストが特に嫌いでは無いし、キリスト教も、その他の宗教のように美しいところもあれば、問題もあると思っているので、極めてニュートラルです。主人は前述した通り、キリスト教の社会的に腐敗した側面に憤りを感じている人なので、正直「何でキリスト?」という感じで解せないシナリオです。まぁ宗教とその起源をそもそも混同すべきではないのかも知れませんが。私達個人の意思とは関係なく、集合意識が働きかけているのかなぁとも推測していますが、何せミステリーです。
(※追記:「サナンダ」って「キリストのハイヤー・セルフ」ってことだったんですね。すみません、ツインレイのそんな基礎的なこと知らなくて… 私はチャネリングが実際のところ「何」にチャネリングしているのか知らないので、未だにこの「キリスト」は、神なのか実在した人の霊なのか集合意識なのか、判断しかねます。)
 
そんな感じで、様々な側面から明らかになってくる個々の「シナリオ」。慣れてくるとちょっと楽しい謎解きゲームのようにも思えてきます(笑 特にやっきになって明かそうとしなくても、「シナリオが分かればプログラムが進む」というよりは、「プログラムが進むと自然に徐々にシナリオが明らかにされてくる」ものだと思いますので、リラックスして運命が描いてくれたあなたのストーリーを、時と共に楽しめばいいのではないでしょうか。
 
Pink Pig でした。

ツインレイと期待の裏切り

こんにちは、Pink Pig です。
 
このブログ、ブログの何も知らないで始めて、Google検索しても出てこなかったのに(検索に乗せるやり方があるのは知っているのですが、パソコン音痴だからよく分かんなくて…笑)、地味に読んでくださっている方々がいるようなので、少しでも有益になる人がいればと思って書いています。不定期ですが、子育ての合間に趣味で書いていることをご了承ください。

今回は、ずばり(?)「期待」について、多方面から見ていけたらと思います。
ツインレイの相方といると、相手が「ミラクルに」期待を裏切ってくれることが多々あります(笑
もう、「一体どうやったらそうなるの?!」レベルに。どうやら他のツインさん達にもよくあることのようです。
これが「なぜ起きるのか」は、はっきり言って私には現時点では解りません。よく「期待は重いエネルギーです。相手をコントロールしてはいけません。」的スピ路線で書かれている方も多いですが、私の経験はそもそも(起こる現象は同じなのに)「ツインレイはこうするべき」理屈に矛盾することが多いので、もし迷っているツインさんがいたら、こんなケースもあるんだと参考になればと思います。
 
まず、「期待」とはなんぞや。ごく小さなものも含めたら、期待は私達の日々の生活から人生まで、常につきまとうものですね。お昼ご飯におすしを買っといたら、美味しいだろうなと期待する(でもまずかったら期待ハズレでがっかりしちゃう。)誕生日が近いと、いつも祝ってくれる友人が今年も祝ってくれるだろうと期待する(で、すっぽかされたら逆に何か関係に問題があるのかと悩んじゃう。)
ツインどうこうに関わらず、「ほらー期待するからよー。そもそも期待しなければ、人生で(ツイン相手に)がっかりすることなんてなくなるのよ。」…そりゃそうですよね。ごくごく当然のロジックです。でも、じゃあ何でそもそも人は期待するのだと思いますか?
期待は喜びの感情と密接な関係があるからです。喜びたいから期待するのです。特に期待していなかった良いことがあると、私達は喜びますが、その喜びは期待が叶う喜びよりも一時的なものです。成長の過程でもそうですが、目標を立てて、努力し、やり遂げるといったサイクルの繰り返しが満足感と、成長へのモティベーションを生みます。流れって人間の脳にとって大事なんですね。
 
その一方で、「期待を”少なくしたら”、人生楽になる」というのもとても最もで有益なアドバイスです。自分や人に期待しすぎる人は、その分がっかりすることも増えて、人生しんどくなりますね。そういう人は周囲からも「重い人」と疎まれがられやすいです。
もうお決まりですが、「自分で自分を幸せに(自己愛)」できる人は、精神的に自立度が高く、他者に期待を寄せて依存しすぎることが少ないんですね。
要するに、バランスの問題です。人間や人生のすべては、ぶっちゃけ陰陽のバランスです。陰だけでも陽だけでも成り立ちません。苦しむからこそ、喜びもあるんです。物も人も含めて、何が何でも「期待するな」と言うのは、「人間でいるな」と言っているのと恐らく大差無いです。(ツインレイが「人間卒業」を控えた魂だからという説もあり、それに対しては何も言いませんが、そもそも人間として生まれたからには、人間としての生を全うして、得るべき学びに正直に向き合いたいというのが私のスタンスです。)
 
また、少し話は逸れますが、期待するしない一つをとっても、人によって「やりやすさ」があります。遺伝子と脳のつくりです。(できが良い悪いという話では無く。)MBTIをよくご存知の方なら知っていられると思いますが、人はそれぞれ脳の「機能」の段階で差があります。脳のタイプが、個人の嗜好や、思考パターン、感情処理傾向等など、様々なことに関与しています。
私の印象では、ツインレイとしてプログを書かれている方々は、INFJもといENFP女性が多いように思われます。詳細は書きませんが、例えば多くの他者にとって難しい感情処理でも、それができやすい(もしくはできた気になっている)脳のタイプがいるということです。では、その人達が他のタイプに「私できた(つもりだ)から、あなたもそうしたらいい」と言うとどうでしょうか?
人には得意不得意を含めて個性があり、どのタイプが劣る/秀でるといったものではありません。現実にある「違い」を認めないと、「あなたもそうしたら」と期待する方も、「どうして私にはできないの」と悩む方も、苦しくなります。だから私は、「あなたにとって正しいことはあなたの神が知っている」と強調したいです。
要するに、「苦しいんだったら、苦しまなきゃいいのよ。」的、スピに多い人間性を無視した安直なロジックは、役に立つ人と立たない人がいるということですね。
 
前置きは長くなりましたが、ではどういった「期待はずれ」なことがツインレイで起きるのかと言うと…これは私と主人の例ですが、言ったとおり「ミラクルに」期待を外してくれます。
例えば、私は外国住まいで、現地の言語が話せません。(家族とは英語です。)そこで主人に、「誰それにこれ聞いといてくれる?」とお願いします。問題なくOKされます。直前にもう一度、主人が忘れないように念押しします。OK, Ok...そして、「返事どうだった?」…「聞かなかった」…はあああっ?!!
例えば、主人が私を喜ばせてくれようとします。「今日これ買ってきてあげるよ。」「本当?」「僕の気持ちを表したいんだ。」「ありがとう♡」私は楽しみに主人の帰りを待ちます。で、…あれ?あれれ?もしかして忘れてる?!「僕の気持ち」なんぼのもんよ?!笑
他のツインさん方はこんな一見ダメ男的な、くだらない話じゃないのかも知れませんが(笑 でもじゃあ主人が真心の無いダメ男なのかと言うと、そうではありません。主人は深く愛してくれ、約束事も、約束した時は本人は本気なのです。当然ながら、こんなことも毎回起こる訳ではありませんが、他の人とでは起こらないのに、何故か主人とは不自然なほど頻発します。先週も、「今回はいつもみたいに意味不明な忘れ方するのやめてね。とにかくしてね。」と前日に釘さした約束をすっぽかされ、雷落としました(笑
プレゼントの例は、私の主人への期待が彼によって造られたのは言うまでもありませんが、ただの伝言の例などは、主人どうこうとか関係無く、ただ必要に迫られての話しです。もし「期待」がスピリチュアル的に主人に何らかのプレッシャーをかけて、それが避けられているとしたら、それはエゴどうのこうのを越して、もうエナジー的に何故か「そういう仕組み」としか言いようが無いですね。だからと言って、主人が何か成し遂げるのを「一切期待しない」なんて、私には当然できません。結婚生活ってリアルに二人三脚ですから(笑 約束守れない人と一緒に社会生活できやしませんから。(こんな主人でも、他のことはしっかり責任持ってしてくれるんですよ。)
 
何が不思議かって、主人本人も、このミラクルな「期待外し」が一体どうしてできるのか分からずに真剣に悩んでいるのです。私は現実的なので、主人の生い立ちからくる精神的期問題(無意識に人の期待や指示を抑圧と感じ、拒否、抵抗しようとする)では無いかと推測していますが、主人自身は何か悪霊にとっつかれていると思っているようです。除霊するとか言ってました(笑 それはもう見事な外しっぷりで、私が主人にオンラインで送ったメッセージをすべて読んだにも関わらず、何故か指示の箇所だけは「無意識に読み飛ばしてて気づかなかった。その他は全部読んだのに。」とか… 主人が私に悪意を持ってしているので無いことだけは明らかなのですが、何ともやっかいなこの「必殺ツインレイ期待外し」、当初はそりゃもうストレスでした。特に塵も積もると、笑って済ませてたことも面白くありません。
ただ、このトピックについて主人と何度も話し合っているうちに、当初は「喧嘩売ってんの?!」と怒っていた私も、「本当に悪気無いんだ。何で起こるのか分からないけど、この人だけのせいじゃ無いし、この人にもストレスなんだ」ということが理解できるようになり、そこまで気にならなくなりました。(っていうかむしろ主人が可哀想…)エゴを手放した訳では一切ありません(笑 「話し合い」という努力の結果です。
 
今回は不可解なツインの「期待外し」についてでしたが、初めに書いた通り、ツインによく勧められている一方的な「許し」や「受け入れ」とは全く逆の道を、私と主人は歩いてきました。そして、それが私達にとって確かに正しい道のりだったと言うことは、私達の人生が、主人のいたどん底からどんどん好転していっている結果からも解ります。
私は、「受け入れられないことは受け入れない」で、相手を非難しました。それは相手と決別したいからでは無く、相手に変わって欲しかったからです。「変わって欲しい」というのは、相手への期待で、誰にでも押し付けていいものでもありません。でも主人は、私の為に必死に努力して、私も必死に主人を導いて、そして現に変わってくれました。その変化が本人の為にも良かったことは、数年経った今でも、「変えてくれてありがとう」という主人の言葉に感じます。
恨みに思うことでも、「許せないことは許さない」で、気の済むまで怒りをぶつけました。それは相手をやりこめたいからでは無く、「許せないけど許したい」からです。主人はすべて耐えてくれ、何度も謝罪してくれ、結果、私は「自然に」過去の痛みが溶けてゆき、許せるようになりました。
私と主人の結婚は、当初でこそめくるめくエモーショナル・ドラマでしたが(大概主人が私が怒る要因をつくって、私が怒り狂って主人を追い回す)、今ではお互いに大分理解が深まり、あれっと思うことは落ち着いた話し合いで納得できるようになりました。不可思議なことは起こりますが、ツイン云々と言っても人です。お互い真摯な気持ちで話し合うというのは、いつでも人同士を繋げる有効な手段の一つだと思います。
 
長文になりましたが、誰かツインレイの「期待外し」の「本当の理由」もしくは「現実的に有益な対処法」を発見した方、是非教えてください(笑
 
※追記:書きそびれましたが、主人は私の期待だけでなく、自分の期待も(私には正直どうでもいいことでも)裏切ることが多かったです。時と共にかなり改善されていってはいますが。勝手に自分に期待して、一人でプレッシャーを感じて自分の期待を裏切る…自滅ですね。神経症の一症状だそうです。
私達にその溝を埋める理解能力がどれほどあるかは置いといても、スピリチュアルは、現実と矛盾しないものです。互いに相手がいないと成り立たない関係です。なので、スピリチュアル的に「なぜ」を説明するのも良いですが、現実的な「なぜ」を突き詰めていくのも、それはそれで価値ある行為だと思います。
 
 
Pink Pig でした。