ちょっとエゴについて

こんにちは、Pink Pig です。

 

今回はツインレイから外れますが…

 

「エゴはいけない。」は大嘘だと思います。

エゴが無いと私達は人間として存在しません。

すべてはバランスです。陰陽、二極化の間のバランスをいかに取るかです。

「完璧な黒/白」は私達の頭の中にだけ、概念としてあります。その概念を上手く使いながら、他者を含め、自分にいかに快適なバランスの環境を整えられるかが、幸福度に大きく関わります。既に幸福な人は、エゴがどうこう言いませんから。

 

「エゴはいけない。」は、もともと「エゴが強すぎて人生に支障をきたしている/不便を感じている」人にアンチテーゼとして使われるには有益です。人間として生まれた限り、多かれ少なかれエゴに悩むことは多いので、様々な宗教で表面的にエゴを非難します。

それと、エゴが何でもいけないというのとは大違いです。(そういう人に限って、自分のエゴがいかに強いかに盲目であるケースをよく目にします。その人が言ってることとやってること、また感じていることの矛盾をよく観察してください。オンライン上では見づらいかも知れませんが。)

 

エゴが強いあなたは、エゴがいけないと思っておいたくらいで調整が取れやすいでしょうし、逆にスーパー・エゴに支配されすぎているあなたは、エゴを認めて、通してあげる方が事態は改善するでしょう。

 

人間のすることはすべてひっくるめて「自分の為」です。他者を自分の為に助けようとすることや。他者を自分の為に求めるのを含めて。私はそんな人間が美しいと感じます。自分が他者に与える影響を何でもかんでも「これは実は自分の為(エゴ)だから、するべきじゃない」とか言ってたら、自分全部を否定しているようなものです。そもそも「全部自分の為」が人間ですから。

 

助ける対象としてでも、育む対象としてでも、愛する対象としてでも、または攻撃する対象としてでさえも、他者を求めながらも、他者に気遣いができる。自然と他者の喜びが自分の喜びになる。それ自体が全部、「自分の為」なんです。

他者をコントロール(しすぎては)いけないというのは、それが結局のところ、廻り廻って「自分の為」にならないからです。それと他者に対するケアがいらないというのとは違います。他者をぞんざいに扱うと、自分に跳ね返ってきます。いくら「自分の幸福が先だから」、「他者に幸福になって欲しいと願うのはエゴだから」等と自己正当化しても、返ってきます。自分/他者をおろそかにしたという、無意識の罪悪感は嘘をつきません。

他者も含めて自分の世界なので、あなたに関わった他者へのあなたの行動は、自分への扱いです。他者を通して、自分を愛し、また自分を律しています。律することも自分への愛です。他者の為に耐えることも、自分の為に耐えているのです。耐える対象を間違えなければいいだけの話(その見極めが難しいのですが…)で、何事にも耐えることを放棄してはただの自己中/自分への育児放棄です。

 

自己中は、本人が一番苦しみます。自分をコントロールすることを自分で放棄しては、自分の目標も達成できないし、自分の本当に欲するものも得られません。自分のモチベーションを自分であげるのだって、コントロールの一種です。

 

大切なのは、自分/他者に奉仕することも含めて、何が「本当に自分の為」なのか知っていることだと思います。それを知るにはハイヤー・セルフにコネクトすると近道かも知れませんが、試行錯誤で自分で探し抜くのも決して悪い道ではありません。

 

例えば、離婚したいけれど、したら子どもを手放さないといけない。でも子どもと離れたくない、等の状況にいるとします。

1.離婚すると、自分から子どもという幸せが奪われる。子どもという幸せを得る為に離婚しない。

2.離婚しないと、自分から他の幸せ(もっと素敵なパートナーを探すとか、嫌な結婚相手といないで済むとか)が奪われる。他の幸せを得るために、離婚する。

 

ここで「子どもを取りたいから離婚しない」が「正しい/間違った判断」だと決めつけるのが、そもそも間違いです。

1と2は、ただ単純に「どっちがより自分の為か」を天秤にかけているだけです。子どもの幸せ等を含め、すべて「自分の」欲するものです。

どっちを選ぶかは、状況に応じて、また個々人の性格に応じて、一万通りの「なぜ」が存在します。ここで後悔をしない決断を取れるかは、どれだけ自分を熟知しているかと、「自立心/自己愛」に関わると思います。どれだけ自分の判断を信頼できるかです。他者の意見は参考にはなっても、「あなたの真実」をつくれません。

 

1を取って、「子どものためだった(けど私は犠牲になった)」と不幸な結婚を嘆くのは、そもそも子どもという幸福をあえて選んだはずの自分軸を受け入れていません。人生何でも自分のエゴに美味しい選択しか無いわけありません。裏を返せは、あなたは「子どもという幸せを取る選択をできた」ということです。それをしたくてもできない人だって世の中にはいます。(子どもが至上の喜びだったのに無理やり引き離されたとか。)何て幸せなあなた。(皮肉るつもりはありませんが。辛いことが辛いのは承知の上です。)

 

2を取って、自分が子どもといれないことや、子どもが自分といれなくて不幸な子(だと思う)ことは相手/状況のせい、と嘆くのも、「自分の判断であった」ということを受け入れていません。(そもそも、2を1よりも自分の幸福と判断した人は、さっさと離婚していると思いますが。)裏を返せは、デメリットは何であれ、「離婚という選択のできる社会で生まれた幸福な人」です。したくたって、それ選んだら殺される人だって世界にはいます。

 

勿論、「どっちを取っても不幸は不幸」な状況も人生には多々あります。でも究極な話し、例え自分が誰かの為に死ぬ選択をしても、その選択が「自分の為」なら、それは自分の為なんです。完璧に他者の為というものは存在しません。

 

自分が「どっちも嫌」な選択のはざまで苦悩するのは、「どっちが本当に自分の為」なのか自分で解らないからです。つまり、自分が自分の苦悩の元凶です。そこに他者や社会への依存心(これそれのせいでこの状況に陥った。から…これそれが解決してくれないかなぁ。)が入ってくると、愚痴が多くなる一方で、苦悩も深まります。

偉そうなことを言っていますが、私も愚痴だらけです(笑 神様に文句言ったらいいと思いますよ。聞いてくれますから。(聞いてくれるのと、何でもあなたのエゴの言うとおりにするのとは違います。ハイヤー・セルフはあなたにとって「本当に良いこと」を知っています。)他者への愚痴はストレス発散にはなっても、自分と向き合う意思が無い限り、心の問題解決にはなりません。

 

「自分が本当に自分の為になる選択」を、自分を信じてすることができた、というのが、本当に「正しい選択」なのだと思います。「正しい選択」をした人には、その後何を被っても後悔の念はありません。この状況でどっちの選択が正しい等ということは、本来他者が解るものではありません。他者の賛同や批判に一喜一憂せず、賛同や批判をあくまで自分に向き合う肥やしにしたら良いと思います。

 

物事はすべてバランスです。「自分という世界の中の他者と自分」という関係の中で、他者を気にしずぎて自分をおざなりにしていたなら、「他者より自分を大事に」することよりバランスが取れますし、逆に他者(という他の自分)より自分を優先しすぎていたら、「他者の為に」と考えることでよりバランスが取れます。もう一度言いますが、ひっくるめて全部自分の為です。

 

「エゴを手放そう/自己中になろう」運動にかえって苦しむ人が減ることを祈ります。私も人生常に模索中ですが、あなたのエゴ、本当の意味でもっと大事にしてあげてください。

 

Pink Pig でした。

 

 

 

ツインレイと感情の有無

こんにちは、Pink Pig です。
 
ツインレイ・プログラムは、感情を強く揺さぶられることが多く起きます。特にツインの相方が、とりわけ神経に触ると言うか、それまで人生で経験したことの無いようなネガティブな感情を呼び起こしてきます。
でもこれ、最近気づいたのですが、ポジティブな感情についても同じことが言えるんですね。例えば安心感や、幸福感等。陰陽別け隔て無く様々な感情が呼び起こされるので、感情のジェットコースターと言うか、「幸せだけど不幸せ」のような、一筋縄でいかない状況に連れ込まれるのだと思います。
 
ここで私達が皆やりがちなことが、「ネガティブな感情に焦点を置く」、「ネガティブな感情をどうにかできないか考える。」だと思います。私達は(特に女性は)人間としての防衛本能から、ネガティブな記憶の方が良く覚えていたり、また自己精進を含めて総合的に皆人生をより楽しく、快適に、意味深く(正確には「意味深いと感じれる」という快を求めて)生きたいと思っているので、一見それらの足かせや無駄になるネガティブな感情を問題視して改善方法を考えます。(逆にポジティブな感情は、ただウェルカムなので、ある意味追い求めるだけで、感じた後はスルーされがちです。)それが良いとか悪いとか言うのでは無く、ただそうです。
 
しかしスピリチュアルの世界では、「ワンネス」や「すべては愛」の視点に基づいて、ネガティブな感情やそれを持つ人を敵視、軽視、侮蔑、もしくはそういった敵意や優越感を隠しながら他者について嘆いていたりといった傾向が見られます。(その時点でその人も同じ穴の貉ということに気づいていないのがなんともですが…)
他者をジャッジしたり、敵視したりするのが悪いことだと言っているのではありません。他者にネガティブな感情を向けてはいけない/コントロールしようとしてはいけないと言うことが偽善だということを、この記事では説明しようと思います。何故わざわざそんなことをするのかと言うと、私が単純に偽善が嫌いだから(恐らく偽善の裏に隠れた劣等感や自己満足、自己防衛等が、私の中のネガティブと共鳴しているのでしょう。)でもありますが、ツインレイ・プログラムからスピリチュル迷子になっている方に、必要な時に読んでいただけらと願うからです。(恐らく自らスピリチュアル記事を読みすぎて、いらんこと考え過ぎた自分への憐憫の投影でしょう。)
 
「ワンネス」や「すべては愛」は、神の視点では実際そうなのだと思います。また私達もその視点にアクセスすることはできます。では根本的に、何故私達は、ポジティブもネガティブも含めて、感情を持つのでしょうか。
陰陽の理が示すように、ネガティブの無いところにポジティブはありません。ですので、「神/天国はすべてポジティブ」で、それだけを目指すべきと考えるとしたら、そもそもが矛盾になります。(悪魔/地獄が間もなくセットでついてきます。)実際は「すべてがニュートラル」、つまり無であり、無限の有であるということだと思います。
しかし神は私達に感情をくださいました。神の目からしたら、人間のポジティブな感情もネガティブな感情も、等しく尊いものでしょう。神はこじらせスピリチュアリストのようにはあなたをジャッジしません。
 
また私達は人間である限り、不快を避けて、快を求めて生きるように生まれました。(一見不快を求めているようでも、根本的には快を欲します。)「ワンネス」等に近付こうとするのも、正にその為です。つまり私達は、「愛」を説くスピリチュアリストを含めて、自分の人生や感情が「ただそうである」ことを受け入れたくないように造られているのですね。不快は避けたいですから。その時点ですでにコントロールが入っています。
何度も言いますが、私はコントロールが何でもは悪いとは思いません。っていうか、根本的な意味でコントロールしようとしない人間なんていません。何らか影響を与えようとする時点で、「結果は神に任せる」と言いつつ、コントロールを希望しています。そういった意味では、キリストもブッダもコントロールを試みます。実際には神をコントロールすることはできないという事実は受け入れていたと思いますが。すべてはバランスの問題です。
 
以前私のアパシー(無感情)について少し述べましたが、どうやら無意識にネガティブな感情に蓋をしていたから、ポジティブな感情も感じにくくなり、相対的に感情が鈍感になっていたのだと気づきました。ネガティブな感情に意識的に目を向け、感じることを許してゆくと、自然にポジティブな感情もよりビビッドになってきました。
泣いて、笑ってということが人間にとって自然であると同じぐらい、笑ってだけして生きたいなーと思うのも、人間として自然なことです。でも現実には、ネガティブな感情はそこにあります。ポジティブが強ければ強いほど、ネガティブも強くなります。「私は完全ポジティブです」と思うのは、ネガティブを隅に追いやっているからで、あるものはあります。
 
感情は神に与えられたものですが、現実的に、感情の起伏が激しい人、また自分の感情をコントロールし辛いは、人生も苦労しがちだなと思います。感情のコントロールは、人間が社会的な動物として進化していく中で欠かせないものでした。(また、感情が欠落しても社会性が損なわれます。)何事もあればいい、もしくは無ければいいというものではありません。それは、ネガティブな感情も同じことです。個々人の視点からすると、「どのバランスが自分にとって生きやすいか。」に尽きると思います。スピリチュアルに限らず、「完全に」何それを追い求めるのは神経症的思考で、無いものを追い求めているのと同じです。
 
それを踏まえた上で、ツインレイです。先にも述べたように、私達はツインを通して感情が「極端に」揺さぶられます。言うまでも無く、疲労します。(でもそんな中、人生自体は不思議と何とかなっちゃうサポートもでてくるので、プチ生地獄的経験もあります。笑)イメージとしては、相対的に人生としては、ツインは「黒に近いグレー」を生きていたところ、「白に近いグレー」にプログラムを開始してからひっくり返るような感じです。でも感情面では、暗闇に隠れていた感情達が、良くも悪くも光の元にさらけ出される状態になります。状況が移行する際のショックのようなものだと思います。
 
ツインレイに限らず、自分の感情を内観するのは精神的にとても有効なことです。だからと言って現実をおろそかにしても、結局とばっちりを受けるのは自分ですが。精神世界と現実世界の関わりは、心と体の関係に似ているなと思います。「どっちがどっち」に影響すると言い切れません。相互に影響します。ツインとの関係も同じで、様々なレベルで相互に影響しながらプログラムが勧んでいきます。
 
と、言うことは…自分の陰/陽であるツインを避けて通れない(いや、避けてもいいんですけど、少なくともツイン・プログラム自体は通れないし、ツインを避けても恐らく自分の陰/陽とはいづれ別の形で対面を余儀なくされるでしょう。)のと同じように、ネガティブな感情を避けては人ととしても生を通過できないということになります。通過したと思っても、消化されなかったネガティブは環境やで出会う人等を通していづれ返ってきます。
いかに「ワンネス」や「すべては愛」が人間として(言ってる人も含めて)「根本的に無理」というのが解るかと思います。
逆に、完璧にはなれないのを承知の上で、バランスを整える為に指標としてそれを目指すことは不自然ではありません。例えば、自分が「怠惰(すぎる)」と感じたら、「(今よりは)勤勉になろう」と努力しますね。それと「完璧な勤勉とはこういうもので、それ以外はダメ」というのとは違います。(そもそも「完璧な勤勉」って何だろう。笑 「完璧にジャッジしない」とかも同じ類です。)
一つの見方として、何かが「よりできていない」と「よりできている」人はいて、それは許し等でも同じことですが、「よりできている(と自分では思っている)」人があたかも存在しない「完璧」を装って他者を非難するのは偽善だと思います。
他者を非難することが悪いとは思いません。どちらかと言うと、不当に非難を受け入れてしまうタイプの人に「嘘を見抜ける力」の大切さを伝えることを、このブログでは綴ろうとしています。
 
因みに、おまけのようで恐縮ですが、ツインレイに限らず、人生で感情を揺さぶられ過ぎて疲労している方へ。単純なことのようですが、ジャッジしないのでは無く、「抵抗しない」ことで楽になることって沢山あります。例えば、ネガティブな感情を感じた時に、「こんなふうに感じてはダメだ/感じたくない/感じさせられるのは不当だ」等、「抗う」と、ただでさえ重い荷物をキントレアイテムみたいに持ちあげてるのと同じように、更に辛く感じます。それが、感情をただ受け止め、抗わずに感じることを許すと、重いわ−とは感じても、より自然なポーズで荷物を持つように、「ただ不快」という状況に変化し、気持ち的に楽になります。つまり二次被害が出にくくなるんですね。これはネガティブな状況も同じで、何か起きた時、それをどう理解するかは私達次第です。そして個人的な状況の理解は、感情と密接に関係しています。
 
いつもながら「考えながら書いて」いるので、まとまりの無い記事になりましたが…お付き合いありがとうございます。
 
Pink Pig でした。

ツインレイと発達障害?

こんにちは、Pink Pig です。
 
時々、ツインレイ(特に男性)と発達障害を結びつけるような記事を目にします。
発達障害は、今やツインレイに限らず社会的に人数が増えて(もしくは以前より認知されて?)取り上げられています。
私の主人は、前妻からあなたはアスペルガ−だと言われ、それについ学んで、検査を受けたものの、正常であるという結果が出ました。(INTJとアスペルガ−ってちょっと似たところがあるんです…INTJは障害ではありませんが。)その上、前妻がADHDであることが後で分りました。恐らく彼女は夫に自分の恐れを投影していたのでしょうね。自己愛性パーソナリティ障害者でもありましたから、自分が「障害者」として気づかれるのが怖かったのだと思います。
 
ツインレイとは直接関係無いのですが、最近のスピリチュアリティには、ADHDやアスペルガ−をスターチルドレン等と結びつけようとするものもよく見られます。私はこれには懐疑的です。私は障害は「受け入れる」ものではあっても、「自己正当化」するものでは無いと思うからです。人間皆パーフェクトではありません。短所も含めて自分を愛する努力をしなければいけません。でも、問題を問題じゃ無いとするのは逃げだと思います。では何が「問題」と認知すべきでしょうか?人それぞれ答えがあると思います。
 
社会的には、皆と同じように社会生活を営むのに支障があるレベルの障害/特徴を「障害」と呼びます。「社会に馴染めないのはあなたの問題ね。」というスタンスですね。私個人的には、少し違った見方をしています。平たく言うと、あなたの特質そのものが「ネガティブなカルマ」をあなた自身に呼び寄せるものだったら、それは本人にも、他者にとっても「問題」と呼んで違和感なく感じます。
また、何に「問題」を感じるかは本人にもよります。そうそうそこまで開き直れる人も本当の意味ではいないとは思いますが、例えば「私何か人から嫌われてよけられちゃうけど、私そんな自分大好きだし、生活にも不自由感じない!」と心から言えれば、その人は自分の問題を「問題」とは感じないでしょう。(心理学的には、人間の幸福は他者との関係が大きく関与するので、もし本当に問題と感じなければ、特異な脳の造りなのでしょう…)でも、本人が「私なんだか生きるの苦しい。人と通じたいのに通じれない。」等と感じていれば、それは本人の「問題」で、他者の問題では無いので、本人が自分の為に状況を改善する努力をすべきです。(どっちに否があるとかいうのとはちょっと違います。)
 
まず私の言う「ネガティブなカルマ」ですが、あまり大きな声で言うのは好まれないかも知れませんが、実際のところ、発達障害を持つ人々には共通したネガティブな性質があります。(皆が皆ではありません。自分に向き合って、向上しようと努力している人達もいます。また、ポジティブな性質もあります。)それは自己中心性であったり、他者に依存的且つ攻撃的な幼児性であったり、客観性や想像力に乏しく、人の気持ちを考えずに行動・発言するのに、自分の気持ちや欲求を声高く主張し、他者が自分の気持ちに沿うことを求めるエゴの強さであったり、感情のコントロールが上手くできず、物事が自分の思うどおりにならないとすぐにキレる傾向であったり…
これらの特性を「性格」もしくは「個性」と片付けて、表面的に「受け入れた」として、さてその人は本当に幸せな人生を送れるでしょうか…?
人と自分は、切り離したくても離せないものです。他者は自分の鏡でもあります。人を傷つけて、人に嫌われて、人を恨んで、それでも「自己愛」と「幸せ」を手に入れようと言っても、人間の精神の構造上無理があります。
 
私の主人の子は非常なグレーなエリアのADHDを持っており(社会的生活は過去に問題があり、今は特にありませんが、ADHDに見られる苦労はあります。)、自己愛性パーソナリティ障害の親に育てられ(これらの障害はどうやらリンクすることが多いようです。)、はっきり言うとあまりのエゴの強さから人の鼻つまみ者となり、本人も非常に苦しい人生を送っていました。自分の問題を直視するよう何度も働きかけられ、本人が努力した今でこそ、数年前とは似つかないポジティブな人生を送っています。まだまだ課題は残りますが、もし本人が自分の問題を人のせいにしたまま、また自己を顧みず正当化したままで、幼稚な他者/社会批判や、自己称賛/自己憐憫に生きていたら、そのまま孤立して不幸を感じて生きる人生だったろうと思います。
 
カルマとは残酷なものだと感じます。本人が改善しようという意思さえ持てれば改善が望める発達障害とは別に、先天性の自己愛性パーソナリティ障害のように「ほぼ改善できない」障害もあり、「そういう脳で生まれてきた」人々は嫌でもネガティブなカルマを増やし、背負って生きています。神の意思とは、それほど理解に苦しむものです。一回死んだら、神様にからくりのほどを聞いてみたいです。
 
話しをツインレイに戻すと、私の主人は特に発達障害として認められるものは無いようですが、精神的には多くの問題を抱え、とても苦労してきました。回避依存やその他の精神問題はツインレイ男性に多いとされますが(私からすれば、ランナーもチェイサーも精神的に大きな問題を抱えています。)、それらは「受け入れた」上で「改善」するものではあっても、「許容する/甘やかす」ものでは無いと私は思います。後者をしてしまうと、お互いに不幸になるからです。「宇宙人だから」とか、「魂は自由だから」とか言い逃れしないで、人間として向き合わないと、自己欺瞞は深まるばかりでしょう。
 
主人の場合、人より圧倒的に優れたIQを保持していますが、歴史的に見ても、そういった人は共感力、自己を客観視する能力等の社会性を欠き、自分を理解し得ない他者を呪うケースが多いのは興味深いことです。功績を残しても、幸せな人だったようには見えません。「(頭が良すぎて)理解されなかったから偏屈になった。」とも想像できますが、本人が「他者を理解しようとする、もとい自己を改善するというスタンスが欠けていた。」のも事実だと思います。人より優れたものも、劣ったものも、脳のつくりの違いが大きいので、「そうであるもの」を嘆いていても状況は改善しません。主人も、自分のことを私から指摘されるようになってから、段々と自己を客観視することができるようになっていき、今では自己反省を社会生活の中で自主的に行う様子も見られます。
 
人の指摘を受け入れる(鵜呑みにするのでは無く、真摯に耳を傾ける。)のは、その他者への信頼がまず不可欠です。主人は自己愛性パーソナリティ障害の親や前妻から、不当な中傷や嘘を並べられて生きてきたので、他者からの批判はまず自己への攻撃であり、真摯に聞く価値の無いものというスタンスに凝り固まっており、最初は話し合いに苦労しました。でもめげずに関わって行くうちに、徐々に信頼を学び、自己改善が自分の為になると感情的にも合点がいくように変わっていきました。
 
発達障害を起因するものも、その他「一般的」と呼ばれる人の中の葛藤も含めて、私達全員の中に、大なり小なり何らかの「問題」は存在します。問題を問題として受け入れるのも自己愛だと、私は思います。
 
※追記:私の知人の一人が、最近ADHDと診断されたそうです。彼女は自分のことを「エンジェル」と呼び(ドリーン・バーチューの影響?)、オンラインで素人カウンセラーのようなことをしてお金を儲けようとしていました。今はめっきり辞めた様子ですが。アーティスティックな才能はあるものの、彼女の人生は問題が多いです。天使や使命だと人助けを建前に人からお金をとる前に、自分の問題と向き合った方が周囲の為ではと、素朴に思います…

 
Pink Pig でした。

ツインレイほっこりバナシ

こんにちは、Pink Pig です。
 
ふと気づくと、最近連続で割と辛口の記事をあげ続けてたような…
私自身の頭を整理する為に書いているところもあるのですが、ついつい想像上の読み手に、ツインプログラム開始当初の自分を投影してしまい、これが役に立つだろうと思うことを羅列してたんですね。ツインレイの試練は辛いので、つい「どうやってサヴァイブするか」的目線に偏っていました。
でも勿論、ツインレイって辛いだけじゃありません。幸せなことも沢山あるんです。
今回は辛い思いをされているツインの方々が、くすっと笑っていただけるような、「こんな日があったなぁ/来るのかなぁ」と思えるような「ほっこり」な側面を書いてみたいと思います。あくまで私達の例なので、どこまで共感できるかは分かりませんが…
 
− お喋り大好き。ツインと話し始めると、時間が飛ぶ。
女友達とワァって盛り上がるような楽しさじゃなくて、何だか「自分と対話している」ような感覚です。でもそれでいて、相手は私に無い思考回路を持っている訳で、刺激的。お互い話しているとある意味中毒のように延々と語り合ってしまい…そんな時間は子どもが寝た後しかつくれないので、毎晩寝不足になります(笑 数時間がブラック・ホールに吸い込まれていくかのように、「え、もうこんな時間?!」みたいなことを何回繰り返しても、懲りずに学ばない(笑
また、悪い意味で無く正直に「何を言ってもいい」相手なので、自分を取り繕う必要も無く、素の自分の率直な意見や気持ちが言えます。これってとても貴重だと思います。私には姉妹と女友達しかいなかったせいか、ツインに会うまで、そんな話し方ができる相手は人生にいませんでした。(女の子って繊細ですからね。私のツインは心臓に毛生えてます。笑)
 
− 一緒に童心に戻れる。一時的にネバー・ランドに飛んでいく。
私達はお互い「表面クール/大人で、コアが子ども」なところがあります。普段は冷静な口調で淡々と話すことが多い私達(特に主人)ですが、可愛い動物や子どもを前にすると目の色が変わります。私はかわゆいかわゆいと騒ぐし、主人は静かにニンマリしてますが、目がキラキラ(笑 普段人の死を何とも思わないような態度でスルーする主人ですが、ペットのハムスターが死んだときには目に涙を浮かべていたのには驚かされました(笑 あとお互い、幼少の時に好きだった本や漫画の思い出を大事にしていたりします。
 
− 密着。お互いを冬場の湯たんぽぐらいにしか思ってない。
手を握っても、ぺったりくっついてても、ドキドキなんてしません。しないけど、何となくくっついてたいんですよね。なぁんか落ち着くー、と。隙きさえあれば触りに来るし、私も寄りかかって、もたれかかって、立ち上がるのもいちいち引張り上げてもらって…(私が)不機嫌でさえ無ければ、そんな日常がごくごく普通です。ぬいぐるみか抱き枕と暮らしているような気分(笑 新婚早々から結婚ウン年になっても、常に添い遂げた老夫婦のような側面が…
 
− シンクロ。でもそんなに有益な時に起きないし、使えない。
何だかよく解らないタイミングでシンクロが起きます。同時に同じことを言ったり、あ、今それについて考えてたとかいうことをやろうとしたり…でも思考が読める訳では無いので、ちょっと面白いだけで、何も役に立たないっていう。
 
− 自分の長所が相手の短所。ちょっと優越感に浸れる(けど、自分の短所が相手の長所である事実にはあまり触れたくない。)
人それぞれ皆得意、不得意がありますが、私が「人よりちょっとできる方かな」といったことが、ツインは超がつく苦手。もう、どうしてそうなるの、と呆れるぐらいに苦手。でも私のツインの長所は、一般の人からも極めて抜きん出ていて(その代わり短所もいっぱいありますが…)、彼の方は既に得意分野については「自分が人よりできる」ことに慣れきってしまっているので、どんなに私がその分野でダメっぷりを見せつけても気にせずスルーしてくださいます。つっこんだり批判したりしない。むしろ、男性特有の「できないのが可愛い」みたいな目線で、全部主人がやってくれる。なんて幸運な私。
 
− お互いに相手の健康が気になる。結果、家には健康グッズがいっぱい。
マッサージ器具、健康食品、マウスピース、ヨガマットから低反発マットレスまで…大体物は主人が買ってくるのですが、私はどちらかと言うと料理に力を入れたり、足湯を促したり。お互い忙しく、深刻な病気にはならずとも体調がどっか悪いことが多いので、いたわりあって生活してます。やはり老夫婦のような側面が…
 
− 好みまでじいちゃん、ばあちゃん。モダンな我が家にはならない。
お互いに価値観に保守的な側面があり、古いものや文学が好き。映画はパソコンのモニターで見るけど、テレビ無いし、家具も暮らしぶりもどことなくクラシック/レトロ。主人は外国人なのに、価値観には昭和の男を感じさせる側面もあり…ちょっと時代からずれてる二人です。
 
− かと思えば、一緒にぶっとんでいる。会話内容が色々アブナイ。
とてもじゃないけど、二人だけの会話を公にはできません。多分ほとんど誰にも理解されないし、内容によってはリスキーすぎてドン引きされるの必死。二人の間ではごく自然なアイディア、感情や思考回路は、二人の間だけに留めておくのが社会的に懸命。
 
− 喧嘩が喧嘩になりきれてない。精神的苦痛は伴うけど、ぶっちゃけ全部こじらせた「拗ね」。
私が主人の(無意識の)挑発を買って、喧嘩を挑むも、相手は戦意無し。何かしら傷ついた思いをした私が一方的に怒ります。主人から喧嘩を仕掛けてくることはありませんが、しいて言えば頑固。私からすればどうでもいいことに対して譲らない。私は大概、「ま、どうでもいいか」とスルーします。お互いに、相手に気持ちを解って欲しいとか、尊重して欲しいとか、何かが「こじれた」時に(大概一方的に)ドラマが幕を開けます。そして気持ちが納得した後はケロッとしてます。
 
− 何だかんだ言って、常に相手には見放されないという根拠の無いふてぶてしさ。
何が起こっても、何を言われても、この甘えと言うか、もはや信仰に近い自信と言うか…言いはしないけど、お互いに持ってるものです。ある意味信頼してるんですが、時々一個人、一大人として、礼儀や敬意を思い出す必要はあります。
 
− 何だかんだ言って、見た目好み。
「魂の伴侶」に、ルックスかい!って思われるかも知れませんが、心理学的にも見た目って大事。私のツインは理想ドンピシャではありませんが、不思議と私の「好み」な顔立ちです。また体型も、相手の(一般的美的感覚からして)短所が自分の長所なので、短所があまり気になりません。(逆に、自分のコンプレックスと同じものを持っている人には惹かれにくいですよね。)
実は私、結婚する一月ほど前まで、一年弱の間主人とはほぼ文章のみのやりとりで、相手の容姿ほとんど知らなかったんです。声も、電話するようになったのは結構後のこと。相手との会話に強く惹かれて、夢中になり、本人に会う前にほぼ結婚を決めていたので、そういう意味では実際に「魂で惹きあった」と言えます。でも私実は面食い(笑 やっぱり一緒に暮らす上では毎日見る顔だし、見た目大事です。主人はファッションにてんで疎いので、たまに私が服選んだり、髪型決めたりしてます。
 
…何か自分で書いてて、「大人の夫婦」やってる子どもか!と突っ込みたくなりました(笑 ヘンゼルとグレーテルが、魔女倒した後そのままお菓子の家に住み込んじゃったよ、みたいな… こんなんで果たしてツインの良さを提供できたのかしら。ツインも色々ですから、それぞれいいとこ、悪いとこあると思いますが、いいとこ探してまったりする時をつくるのも、長いプログラムに翻弄される中でオアシスかも知れません。
 
 
Pink Pig でした。

ツインレイ男性とシャーマニズム

こんにちは、Pink Pig です。
 
今回は私の主人を通して、ツイン男性に垣間見られるスピリチュアル能力について紹介したいと思います。
あまり頻繁に言うとうるさいかも知れませんが、いつも通り、「一例」として聞いてください。ツイン男性も女性も色々なタイプがいます。サナンダも、ツインの関係は個々それぞれだと言っていましたね。(サナンダのチャネリングにはまだ色々疑問が残っているのですが、仮にリサ・スミスの言及したツインレイが巷に流行るツインレイだと認めたとして、サナンダは「ツインはこういうステージをたどる」という巷の説明には一切触れていませんね。ツインのステージを信じ切ってしまうのって、「一般的/記録的にはこうなることが多い」を、「そうならないと間違い」と飛躍しているようなものなのではないでしょうか。)
 
ツインレイは女性が精神的苦痛を経験後、スピリチュアル的に覚醒し、それに引っ張られるように男性も覚醒して、関係も円満になってくるという流れが多いようです。私達もそのタイプです。また一方で、ツイン男性はスピリチュアル能力が高い人が多いとも言われています。
うちの主人の場合はと言うと、会った当初は、「なんちゃってシャーマン」でした(笑 独特の神観を持っており、自分にシャーマン的能力があるとのたもうておりました。(一方私は、自分の力にまったく気づいていませんでした。)あるのはあるんです、神のメッセージを受け取る力が。でも、実際に神/ハイヤー・セルフに操られている時は本人はまったくの無自覚なので、私が見て「あぁ、神様に操られてる/導かれてる」とか、「あぁ、今ハイヤー・セルフのメッセージそのまま無意識に口にしてる」とか解っても、本人は何も意識しておらず…後 で「何であんなことしたの/言ったの?」と聞くと、本人も自分が解らないそうです(笑
自然体でシャーマンなんだから、それでいいのに、当初はナルシズムの影響が自分のスピリチュアル観にも反映されてしまっており、謝った全能感や自虐と共に、神と名乗る悪魔と戯れているような時期があったようです。そういった偽りの自己を脱ぎ捨てて行くにつれて、彼の「天然シャーマン」度も上昇していきました。本人は未だに無自覚ですが。
 
また、過去にはそのピュアな天然度をダークサイドに悪用されて、闇が送ってきたメッセージをそのまま神のメッセージと勘違いし、現実苦に耐えながら、腑に落ちないながらも自己をごまかしながら、指示通りに生きようとしていた期間が長くありました。
そもそも何故闇のメッセージを鵜呑みにしてしまったかと言うと、悪魔のお決まりの手法、「自分の弱みにつけこまれた」んです。人間、苦痛の中で「信じたら楽になるもの」を与えられると、例えそれが実際には大して苦痛を和らげなくとも、藁にもすがる思いで信じてしまうものなんですね。闇はまた、神に操られているものの一部です。私は根本的に、闇は気づきを促す為にあると思っています。主人は私が指摘しないと自分の闇に気づけませんでしたが。言うと最初は耳が痛いですが、非常に納得して、後心が軽くなるの連続でした。主人の闇は、私の無意識に隠していた自分ともリンクしていました。そういう意味でも一心同体です。
 
皆がそうではありませんが、ツインレイ女性が「頭で考える」スピリチュアリティを学んで実績することが多い反面、ツイン男性は「天然神の子」であるのは面白いコントラストですね。ちなみに主人も、プログラム以降どうやら「天職」を見つけたようです。ツイン男性はツイン女性を守るように促されているようですが、ツイン女性もまたツイン男性を支えるように造られているので、本当に2つで一つ、優越つけられない「お互い様」の関係なんだなと思います。
 
主人の人生は、プログラム開始後は「社会の闇」に対峙する連続でした。家族を脅かそうとする理不尽な組織、法とその不完全さ、自己愛性パーソナリティ障害を持った雇い主、弱者の名を縦に他者を支配しようとする者と、それをサポートする社会…一つ一つ戦ったり、切り抜けたりして、闇を体験しながら切っていく役目だったんだなと思います。今は独立を目指し経験を積んでいます。
そんな傍ら、私は横でのほほんと主人の戦いを見ていますが、私は私で、主人の子のメンタルのことや、家事、育児、つわり、またツインプログラムに促されるままに自己/主人と向き合い…割と忙しく過ごしています。主人は家の外のことをすべて受け持ってくれますが、家事、育児はてんでダメという、まるで一世代か二世代前の夫婦のような暮らしぶりです。各々に、社会/個人のエリアでスピリチュアリティを使ってるなぁと思います。
 
そんな感じで、時には激しく、時にはまったりツインを生きている私達です。私達の例が「まったくテキスト通り」のツインであれば、私はこのブログを初めなかったかも知れません。でも自分が多くのツインブログを参考にさせてもらった中で、「ツインのルール」に混乱した当初もあったので、私達のような一例が、誰かの参考になればいいなと思います。
 
 
Pink Pig でした。

ツインレイ女性とシャーマニズム

こんにちは、Pink Pig です。
 
今回はツインレイ女性とそのスピリチュアル・パワーについて、自身を一例に語ろうと思います。
スピリチュアルな力というものは、自分がありますと言ったって、はいそうですかと認めてもらえるものではありませんよね。それでお金をもらっているので無ければ、認めてもらう必要も特にありませんが。ただ私自身が、ツインレイ・プログラムが始まって以降、「私何か能力あるらしいよー」とゆるく気づいていったので、ツインレイ女性がスピリチュアル面で男性レイを引っ張っていくケースが多いと言うのは、あながち嘘じゃないだろうと感じています。
 
私の四柱推命の日柱は、「異常干支」と呼ばれるものの一つです。いきなり人捕まえて「異常」って失礼だと思いますが(笑、まぁ自分人とは違うなとは感じていました。スピリチュアルな能力を祖先から受け継いでいるそうですが、霊が見えるとかいうのとは違います。見えるのは、良くも悪くも、人の心(と思考)です。相手の考えていることがサイキック・パワーですらすら読めるのとは違います。極めて現実的な方法、つまり直感力が特定の方向に鋭い脳の造りなので、相手の声のトーンや表情、行動や思考パターン、言っている内容と相手が本質的に求めているもの、避けているものの矛盾等を総合して、人の静かな愛情の表現、また裏の顔や計算、欺瞞等が「読めてしまう」「傾向にある」ということです。あくまで傾向です。スーパー・パワーではありませんのであしからず。ちょっと人よりそういう感性が強いというだけです。(私とは逆に、主人は人の心やその裏が読めなさすぎる人です。私達は本当に正反対の長所を持って生まれてきています。)
 
スピリチュアルな能力とは、「何か現実からかけ離れた」ものとは限りません。実際、現実もスピリチュアルも辻褄が合うように造られているので、まるで魔法のように思えるできごとは、おそらく私達の現実の理解能力が追いついていないからだろうなと私は思っています。例えば「あの世」も含めて、あればそれは現実です。
 
人は自分の名前を自分で決めて生まれてくると言われますが、私の名前には「神に誓い神意を悟る」と言う意味があります。大層に聞こえますが、ごくごくフツーの名前です。あえて言うなら漢字が微妙に少数派。フツーすぎて、小さい頃は「ダサいわ−」と嫌っていました(笑)お寺でつけてもらったそうです。おそらく私の魂は、自分がツインレイ女性として生きることを設定し、その役目のヒントを名前にしたんだろうなと想像します。その割にはお役目に対し文句タラタラですが…神に誓ったんじゃなかったのか、私。
 
インターネット上でどういった情報に巡り合うかにも、スピリチュアルな力が働いているというのは、既に多くの人が感じていることですね。私の場合、誕生日からは「情報収集能力に優れている」性格らしいですが、実際のところは情報通でも何でも無く、ただ「必要な時に必要としている情報に巡り会いやすい」ラッキー度が、特にツイン・プログラム勃発以降急上昇しているのを感じます。シナリオに「いい順番で」自然に情報が明け渡されるようなので、私自身は必死に情報を探し求めること無く、ふと気になったことやキーワードを検索した時に、次のステージへのきっかけとなる情報が来るといった感じです。
 
私よりはるかにIQの高い主人が、私の情報収集能力に驚くというのですから、実際そういった長所があるのでしょう。でも私がインターネットや周囲のヒントから得る情報は、大概家族の成長の助けになるものです。それらと自身の成長や、ツインプログラムがリンクしている感じでもあります。ですので、私は自分の「能力」は、神から与えられたもの、というか、周囲の人を助けるという目的を神が私を通して行っているだけで、自分はそのマリオネットか、伝導体のようなものだと感じています。
チャネラーもそうですが、神と繋がる伝導体の役目を持つ人がシャーマンですよね。でもその人自身がすごい、というよりは、人を使える神がすごい、と私は感じます。私は神に使ってもらえる自分も割と好きですし、(何度も言いますが、不満タラタラでもありますが…)無理に謙虚ぶるつもりはありません。が、実際に神の意思を感じることが増えると、正直に「うわぁ、自分使われてるな−」感満載です(笑 特別なものでは無く、それに気づかずとも私達一人一人が皆神に使われているように、ごくごく自然なことなんだろうと思います。
(ちなみに、ここでは神とハイヤー・セルフ、アセンデッド・マスター等を区別せず神と読んでいます。あしからず。私には具体的に何が誰の影響か等は解りません。)
 
神に使われた人と言えば、キリストも、例えば特に人類の為に死にたくて死んだんじゃ無いですよね、多分。(そうだという説も沢山あり、個々の解釈をどうこう言いませんが。私はテキストからそう理解するのが自然だと感じます。)処刑される前も、それを知っていながら、「できればやめてください。でもあなたの意思なら遂行してください。」的な祈りを捧げて苦しんでいたと、聖書には書かれていました。死の間際の「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」も有名ですね。
キリスト教に楯突くつもりはありませんが、私個人としては、キリスト自身は神では無く、非常にスピリチュアル的に目覚めていた人間だったのではと感じています。神が自分を疑っても仕方ありませんし。人類に与えた影響を考えると、偉大な人だったのは私ごときが言うまでもありませんが、あくまで私個人としては、素直に「可哀想…」と思ってしまいます。復活されたとか、アセンデッド・マスターになったとか、後の話は色々ありますが。それにしたって気の毒です。仮に本人の意思で、神の意思に従いメシアとして苦しんだとしても、苦しみは苦しみです。まさか自分が処刑される運命だとは、最後まで受け入れるのが辛かった様子が伺えます。
 
ここから何が言いたかったのかと言うと、ツインレイもライト・ワーカーということになっていますが、「人類の幸せが私の幸せ」ぐらいに悟っていないと、神に指名される存在であっても、それがイコールで個人の幸せとはなりませんよね。(私なんか悟りとはほど遠く、「私エゴの欲求が満たせる人生生きてみたいんですけど?!」と常に求めてます。そんなんでも割と幸せですが。)神の愛はそれほどに理解が難解なものなんだと思います。それは自己愛と自己矛盾も含めてそうですね。神に愛されるといいことも沢山ありますが、自分が無意識に自己犠牲を望んでいたら?何だか空恐ろしい気もします(笑
 
Pink Pig でした。

ツインレイとジャッジメントと鏡の法則

 

こんにちは、Pink Pig です。
 
前回のジャッジメントについての続きですが、今回は「ツインだったらどうなるか」的側面から書いていきたいと思います。(あくまでも「うちのツイン」の例です。こうならないとツインじゃないということではありません。)
 
よく言われる「鏡の法則」ですが、これはツインに限らず、自分が無意識に鏡として選んでいる(自己を投影している)他者なら誰を対象にしても起こります。相手の好きなところは、自分自身の好きなところ。相手の嫌いなところは、自分の嫌いなところ。
では、自分の嫌いな、許容できない自分を許容してしまえば、相手の嫌なところも気にならなくなる…?まぁ、ロジックとしてはそうではあるんですが…じゃあ「なんでもOK」自分に出しちゃって、本当にOKって感じれますか?
 
例えばサディズムは、多かれ少なかれ人間は皆持って生まれるものです。私は動物の肉を食べるし、論理的には自己正当化できないと解っていても、弱い動物や子どもをむやみにいじめて、己の劣等感をサディズムではらそうとする人に強い怒りを感じます。(そんな人と個人的に知り合うことも無いですが、炉端で見かけたりすると普通に不快でしたし、動物や子どもを守ってあげたくなります。)
先程理論的には正当化できないと言いましたが、このような反応をするのが当然私だけで無いように、人間心理として、(動物食べといて)動物虐待に憤りを感じるのはごく自然なことです。「子ども(弱者)を守る」という本能は、社会生活を経験してきた上で、多くの人間の遺伝子レベルに刻まれているからです。そういった本能が、高度に社会的動物である人間には有益だったということですね。
 
というわけで、「こんな状況は良くない」と思った時に、「状況を変えたい」、つまり怒りの感情が出ますね。
これを鏡の法則に照らし合わせてみるとどうでしょうか。サディズムは私の中にもあるから、相手の感じていることがある程度読めるし、それに対して怒りもするのですね。逆に全く持って理解不能な、一度たりとも経験したことない感情なら、困惑こそすれ、怒りには繋がりません。ではこの状況、「私の中のサディズムを認めます、許します。だからサディスティックな人にも関与せずスルーします。」と言って、何の感情も持たずに見れますか?むしろ、それできたら人間としてちょっと危うくないですか?
もしくは、「怒りは悲しみから来てます。あぁ悲しい。悲しみを受け入れます。」と言って、弱者がいじめられている状況を傍観しますか?その弱者がもしあなた自身だったらどうですか?他人に起きたことには哀れんで、憤れても、自分ごとだとどうでもよくて、いじめられときますか?
 
まず、自分のネガティブな側面を認めたとして、その上で自分をどうジャッジするかは、自分自身の問題です。「感情は認めても、それを行動に表すべきでは無い」状況はいくらでもあります。(何でも自分の感じるがまま行動すれば、自分自身が困った状況に陥るのは言うまでもありません。)
ツインに戻りますが、ツインはこういった「自分の見たくない自分」を他者よりも激しく自身にぶつけてくるところがあります。誰でも「自分のダークサイド」を保持している他者に自然に惹かれるというのはよくあることですが、ツイン相手は、こっちが疲れるくらい、それを執拗に見せてきます。
 
先程のサディズムですが、夫は過去から来るトラウマ等から、無意識に私にサディスティックな言動をすることが多くありました。じゃあ私が自分の中のサディズムを認めると、それが治るのかと言うと… 私は既に自分の中にあるサディズムにも気づいていたし、特にそれをどうこうしようという思いすらありませんでした。(サディズムにしたがって不道徳な行動をするという認識もありませんでした。)
ツインによく推奨される「受け入れる」、「自分の問題と考え相手を変えようとしない」等とは別の方法を、私は取りました。
夫(自分)相手に、「だめなものはだめなんじゃボケ!」と怒ったのです(笑
 
「自分に怒れるということ。」私はこれもとても大事な自己愛の一つだと思います。親が子どもに怒るのもそうです。精神的に不健康な親は、純粋にコントロールすることのみを目的に怒ることが多いですが、子どもを愛している親は、「子どもの為=子どもを愛している自分の為」に怒ります。「危ないことしないで」一つとっても、「あなたが怪我したら私が迷惑被るじゃない」と、「あなたが怪我したら、あなたを愛してる私が悲しい。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。「悪いことしちゃだめ」も、「私が恥かくじゃない」と、「不道徳に生きると結果的にあなたが傷つくのよ。あなたが傷つくのが怖いからお願い」とでは、全然違います。
 
コントロールするよりもっと悪いかも知れないのが、「無関心」です。子どもに対して、「あなたをコントロールしようとすることを手放します。怒りも感じません。」といって、それは本当に子どもの為でしょうか。実際のところ、子どもは親の感情無しには学びません。「こうこうこうだから、やめようねー」と言い聞かせても、親が「本気で」自分に怒ってくれないと、「真剣に」対応されていると感じれずに、学べません。私の主人は、前妻との子に「無関心」だった為、子どもの成長がかなり遅れ、子ども自身苦しんでいました。当初は私に色々と嫌がらせをしながらも、その子は私に「私を直して(”Fix me!")」と言ってきました。自分が間違ったことをしていたのは、どこかで分かってはいたのです。それで自分の首をしめていたことも。誰かに「真剣に」向き合って、怒って欲しかったのです。ごまかさないで、ちゃんと直視して、意見して欲しかったのです。感情をぶつけるのでは無く、その子と向き合って「真摯に」怒ると、私の言葉を素直に受け入れ、みるみる変わっていきました。同時に神経症も良くなっていきました。
 
あなたは常にあなた自身が育てています。親であるあなたが、子であるあなたに「何でもOK」、またツインであるお相手に「あなたも私だからなんでもOK」と言って、それを「真実の愛」と呼べるでしょうか。もしかして、「自分が苦しみたくないから育児放棄/相手放棄」に近いものじゃないでしょうか。
「なんでもOK」なのは、感情をありのまま感じ、受け止めるレベルまでです。自己の感情同様、ツインであろうとなかろうと、他者が何にどう感じようと、根本的にコントロールできるものではありません。
しかし、あなたのツインが、あなた自身が自分に「してはダメ」と言っていることをしていたら、それは怒ってあげるべきじゃないかなと私は思います。(逆にあなた自身が「あ、これいいんだ」と納得させられたら別ですが。)「受け入れ」とは「放棄/放置」とは違うからです。相手がネガティブな感情も感じることを受け止めるのが受け入れです。相手があなたのモラルを破っているのを見てみぬふりするのは放置です。関係に「他人度」が増すほど、大人同士では放置しても自己責任なので問題ないことが多いですが、ツインは「もう一人の自分」です。自分のダークサイドを自分が放っといて、勝手に良くはなりませんよね。
 
ツインの表面的な行動をコントロールしようとしても、上手くはいきません。でも、親に愛して欲しい子どもは、親が自分の感情を受け止めてくれた上で、自分の為に怒ってくれていると感じれたときには、自然に変わろうとします。愛のみが人を変えることができると言われるのもこういったことだと思います。
ツインはもう一人の自分であると共に、自分の親で、子でもあります。私が「私はこれは嫌い。私はこれはしてはいけないと思う。」と怒りを持って伝えたことは、ツインに響きます(そして、もともとツインも実は私と同じ価値観を持っています。根本的に、私達はお互いに同意しているのです。)「変えられた」と言うよりは、最終的にいつも「気づかせてくれてありがとう」という反応になります。
 
ツインに限らずですが、愛ある否定とは、「あなたを愛しているけど、あなたのこうゆうところは好きになれない」だと思います。「あなたのこうゆうところが無くならないとあなたを愛せない」との違いです。前者は人に影響しますが、後者は人を萎縮させ、神経症にさせます。
自分にも、また自分の半身のようなツインにも、「NOはNOと言う」のは大事だと思います。執着もエゴも、持っている以上苦しみもあるものですが、苦しいからって何でも手放してしまっては(または手放したつもりになっていては)、魂は学びません。あなたが人間として生まれたのは、人間として感じ、苦しみも喜びも学ぶべきだったから。そんな泥臭い生き方が、人間である自分を愛するということではないかなと思います。
 
 
Pink Pig でした。